阿部慎之助の控え捕手として18年間の現役を全うしたのが、巨人・加藤健だ。

“松坂世代”の1人として99年にドラフト3位で巨人入りした加藤は、翌00年9月27日のヤクルト戦で1軍デビュー。同29日のヤクルト戦では先発出場をはたした。

 優勝決定後の消化試合とはいえ、大きな励みになった加藤は、3年目のさらなる飛躍を誓った。

 だが、同年のドラフトで即戦力捕手の阿部が1位指名(逆指名)され、入団後の阿部のプレーを見るにつけ、“超えられない壁”であることを思い知らされる。

 当時の巨人は、阿部以外にも、村田真一、村田善則、吉永幸一郎ら捕手陣の層が厚く、加藤は03年からの3年間、1軍でまったく出番がなかった。さらに05年オフには、日本ハムから同世代の実松一成が移籍してきた。

 崖っぷちに立たされた加藤は「自分の役割とは何か?」と考えた末、阿部がケガをしたときに使ってもらえる捕手になろうと、陰の努力を続けた。

 翌06年は1軍で19試合に出場。07年にはプロ8年目の初安打と初本塁打も記録した。

 負傷の阿部に代わって先発マスクをかぶった12年の日本シリーズ第5戦、4回の打席で投球が頭に当たっていないのに、死球と判定された珍ハプニングは、今も多くのファンの記憶に残っている。

 だが、続く5回の打席では、日本ハムファンのブーイングのなか、2点タイムリー二塁打を放ち、チームの勝利に貢献した。

 その後も、阿部が一塁手に転向した15年にキャリアハイの35試合に出場するなど、18年もプレーを続けられた理由について、加藤は「捕手だったからこそ、“使いやすい商品”になろうという発想も生まれ、守備面やリード面のほかに、コミュニケーション能力やチームの雰囲気や流れを変えるための起爆剤など、打力とは別の部分でアピールすることができた」(自著「松坂世代の無名の捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか」竹書房)と振り返っている。

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長嶋茂雄じゃない“もう一人の4番サード”