ヤクルト時代の野口寿浩(OP写真通信社)
ヤクルト時代の野口寿浩(OP写真通信社)

 野球のポジションは9つ。能力があるにもかかわらず、同じポジションに球界を代表する偉大な選手がいたために、出場機会が回ってこない。そんなめぐり合わせの不運に泣いた選手も多い。

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 代表的なのが、ヤクルト時代に古田敦也の控え捕手だった野口寿浩だ。

 1990年、ドラフト外でヤクルトに入団した野口は、同期入団のドラフト2位・古田が1年目から正捕手に定着したことから、ずっとその背中を追いつづけた。

 91年10月13日の中日戦で1軍初出場をはたした野口だったが、92、93年の2年間は2軍暮らしが続く。

 だが94年、古田が開幕早々右手人差し指を骨折したことにより、大きなチャンスがやって来た。

 代役に抜擢された野口は、4月19日の横浜戦で4打数4安打を記録し、6月8日の巨人戦でも、2回に先制二塁打、1対1の延長10回にサヨナラ打と大活躍。「進歩せん」と野口に対してボヤきつづけていた野村克也監督も、目をうるませながら「ようやった」と祝福の手を差し伸べた。

 6月中旬に古田が戦列復帰したあとも、同年は第2の捕手として63試合に出場し、打率.270を記録。捕手では珍しい俊足に加え、古田以上の強肩も売りだったが、翌95年から3年間は、1シーズン平均15試合と出番が激減した。

 これは古田に何かあった場合、すぐに代役を務められるよう2軍で実戦の勘を養うという損な役回りを押しつけられた結果だった。97年オフには、出番を求めて自らトレードを申し出たが、野口に代わる第2の捕手がいないという理由で慰留された。

 だが98年、脱税事件で開幕から4週間出場停止になった宮本慎也の穴を埋める内野手補強が急務になったチーム事情から、日本ハム・城石憲之との緊急トレードが成立。負傷した正捕手・田口昌徳に代わって5月から先発マスクをかぶった野口は、2試合連続本塁打を記録するなど、攻守にわたってチームに貢献し、監督推薦でオールスター初出場と、これまでの苦労が一気に報われた。

 日本ハムで5年間正捕手を務めたあとも、野口は阪神、横浜でプレーし、スーパーサブとして、いぶし銀のような光彩を放ちつづけた。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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