大屯神社に伝わるシバヤ「キンコウ節」(写真提供/奄美せとうち観光協会)
大屯神社に伝わるシバヤ「キンコウ節」(写真提供/奄美せとうち観光協会)

●鉄砲を広めたのは清盛のひ孫

 なかでも、平家の落人を語る上で、鹿児島の伝承は特に興味深い。史実かどうかは別として、漂流していたポルトガル人から鉄砲を買い取り、その仕組みや製法を研究、広めたことで知られる種子島氏は、清盛の孫・行盛の子が祖と言われている。そして、種子島の西に位置する小さな薩摩硫黄島、黒島にも落人伝説が多くあり、どちらの島にも追っ手を見張るために作られたとされる平家城跡が残っている。薩摩硫黄島は、歌舞伎の演目「俊寛」でも知られる島でもあるが、安徳天皇が従者たちと逃れ住んだという伝説も残り、居を構えたという黒木御所跡、安徳天皇墓所とされるものも従者たちの墓とともにある。また、島民はみな平家の子孫といわれる黒島の黒尾神社には平家ゆかりの伝承があるほか、追討にきた武将が平家の娘に恋をしたという伝説も残る。

●奄美諸島に残る平家の足跡

 それよりもう少し南に位置する奄美諸島にも詳細な伝説が存在する。前述の俊寛は「鬼界ヶ島」に流刑になったのだが、実はこの島は未だ確定されていない。奄美諸島の喜界島もその推定地のひとつで、空港近くに俊寛のお墓があるほか、島の最北に「平家上陸之地」なる碑が建てられている。伝説では平行盛、資盛、有盛が喜界島へ上陸、その後奄美大島や加計呂麻島へ渡ったとされている。

 奄美大島には「平行盛神社」「平有盛神社」が、加計呂麻島には資盛を祀る「大屯(おおちょん)神社」があるのだ。大屯神社に奉納される、重要無形民族文化財「諸鈍(しょどん)シバヤ」という芝居の起源が、資盛が地元の人たちとの交流のために広めたとされている点が興味深い。手製のカビディラ(紙面)をつけて舞う踊りの演目は今も11種残り、中には“一の谷の戦いに敗れ敗走する一族が、敦盛の討死を嘆き悲しむ場面”もあって、少なくとも平家と何かしらの関連があると思われる。

●平家も源氏も逃れてきた場所

 面白いことに、奄美諸島には兄・義朝(源頼朝の父)に追われて流れ着いたとされる源為朝伝説も残っている。為朝はその後琉球へ渡り、初代琉球王の舜天の父となった──という伝説が、江戸時代に曲亭馬琴の物語「椿説弓張月」へと繋がっていった。もちろん、種子島と奄美諸島の間に位置するトカラ列島にも平家伝説はあって、諸島のひとつは平島といい、また逆に“平家の落人が追手が来たがらないような名を付けた”とのいわれを持つ悪石島などがある。

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