だが、センバツ出場がかかった93年秋の中国大会で、悲劇が相次いで2人を襲う。

 初戦の岩国工戦で、二岡が安打を放った際に右肋骨を痛めて戦線離脱。さらにセンバツ当確まであと1勝となった準決勝の岡山理大付戦で、今度は福原が試合中に肘を痛め、0対7と完敗。翌春のセンバツを逃したばかりでなく、投手肘と診断され、手術を受けた福原は、半年近く投球することができなかった。

 そして、迎えた最後の夏、初戦の広島工大戦は21対4と大勝も、先発・福原は4回を6安打4四死球の3失点と完調にほど遠く、次戦以降に不安を残した。

 3回戦の相手は、新井貴浩(広島-阪神-広島)が主将で4番を打つ広島工。新井は「当時の広陵は“全国制覇も夢ではない”といわれたほどのチーム。本当に捨て身で臨みました。10人中10人までが“広陵の勝ち”と思ってた試合でしたから」と回想する。

 一方、広陵は苦肉の策で3番手投手を先発させたのが裏目に出て、初回にいきなり新井に先制タイムリーを浴びてしまう。

 4回から福原がリリーフしたが、2つの暴投で追加点を許し、わずか2イニングで降板。6回から投手としての実績も十分だった二岡がマウンドに上がったが、1点差に追い上げた直後の7回に小技でかき回され、2点を奪われるなど、悪い流れを変えられず、2対6で敗れた。

 秋、春と県内で無敗だったチームのまさかの敗退に、中井哲之監督は「こんなこともある。野球の恐ろしさです」と目を赤くした。

 同年夏の甲子園では、“無印”の佐賀商が優勝しているので、もし福原が万全だったら、広陵にも十分チャンスがあったはずだ。

 左腕・岩田稔(阪神)に高校通算83本塁打の中村剛也(西武)、2年生の西岡剛(ロッテ‐ツインズ‐阪神)がいた01年の大阪桐蔭も、同年夏の甲子園V校・日大三にひけをとらないスケールの大きなチームだった。

 夏の大阪大会を前に、朝井秀樹(近鉄-楽天巨人)、今江敏晃(ロッテ-楽天)を擁し、最大のライバルだったPL学園が不祥事で出場辞退。岩田が故障で満足に投げられないハンデを差し引いても、大阪桐蔭がガチガチの大本命だった。

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ラグビー並みの得点で勝った試合もあったが…