大会本番では、慶應義塾大のクルーは世界を相手に歯が立たなかった。

「レースは海上で行われ、波とうねりのあるところでの試合は初めてでした。慶應の舟は軽量級だったので木の葉みたいに揺らいでしまう。重量級の舟にはかなわなかった。軽自動車と大型自動車の違いでしょうね」

 1956年メルボルン大会で代表となった慶應端艇部の岩崎洋三は、東京教育大学附属高校(現在、筑波大学附属高校)時代、ボート部に属していた。大学受験前、高校の先輩で慶應義塾大の端艇部員から「慶應でボート部に入れ」と誘われる。岩崎は大学入学後、すぐにメンバー入りを果たした。岩崎はこう振り返る。

「スカウトですね。私もその気になってオリンピックを狙おうと思い、入学手続きを済ませて合宿入りします。最初は体がかたく、マットで前転を繰り返し柔らかくなった。一流の選手を呼んで一流の練習をするというやり方でした。まだ大らかな時代で、練習や試合で授業に出られなくても、大目に見てくれるところがあり、先生から『お国のためだからがんばれ』と手紙をもらいました」

 岩崎とともにメルボルン大会に出場した比企能樹は、慶應義塾大医学部4年だった。当時をこうふり返っている。

「実は、私のオリンピック出場を許可するかどうか、医学部の教授会で問題となっていたそうです。なぜなら、出席日数が足りないからです。教授会の大勢としては、『もし行くなら留年させろ』という意見が多かったようですが、その場で、当時の学生部長であり、薬理学の教授であった西田先生の『行かせましょう』の鶴の一声で私は晴れてオリンピック代表になれました」(慶應義塾大弁論部エルゴー会[OB会]会誌『ERGO』48号 2017年4月)

 比企は医師として活躍し、昨年まで、慶應のOB会、三田会会長をつとめていた。

<文中敬称略>

(文/教育ジャーナリスト・小林哲夫