たとえば、持久力養成トレーニングとして200メートル全力疾走、400メートルジョギングを組み合わせて毎日6000メートルを走った。最大酸素摂取量を高めるため、400~600メートルを全力疾走し3分休息後、再び全力疾走を繰り返した。筋力養成ではバーベルを用いての腕力と背筋力の増強に努めた。大久保はこうふり返る。

「毎月1回データをとると、私たちの体力がみるみるうちに付いていくのがわかりました。どこの筋肉をどうやって付けたらいいのか、心肺機能をどうすれば高められるかもわかってきた。漕いでいるだけでは体力は付かず、強くならない。そこで、私たちが最先端科学を採り入れることで強くなったわけです」

 科学的なトレーニングの成果は表れた。

 1960年、東京大はオリンピック代表選考レースで大久保たち五人の舵手付きフォアが優勝し、同年ローマ大会代表に選ばれた。「嬉しかったですね。東大は体力、持久力は抜群だった。前半の1000メートルは負けているが、後半の1000メートルになると一艇身の差をつけて勝っている。同じスピードが最後まで持続でき、その間、ライバルはどんどん後に下がっていきます」

 しかし、残念ながら、オリンピックでは通用しなかった。ローマ大会の予選ではトップと20秒近く差を付けられてしまう。敗者復活戦でも最下位に終わった。

 大久保がオリンピックに向けて準備をしていた頃、国内は60年安保闘争のさなかだった。国会前やキャンパスは騒然としており、それに苦悩した漕艇部員もいたようだ。大久保はふり返る。

「夜合宿所の布団の中で聞いたラジオから国会前のデモで東大の樺美智子さんが亡くなったことが知らされたとき、ぼくたちはボートばかり漕いでいて、時代に取り残されるのではないかと不安に思ったものです」

 1960年、大久保は積水化学工業に入社。89年同社の取締役となり、99年副社長を経て、同年社長に就任、2009年には会長となり、現在は名誉顧問を務めている。

 また、2004年から日本ボート協会の会長職にある。日本のボートの将来について、こう語る。

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五輪に出場した東大生のその後