東日本大震災から10年…震災直後の南三陸町で送った極限の日々 あの日、記者は何を見たのか? (2/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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東日本大震災から10年…震災直後の南三陸町で送った極限の日々 あの日、記者は何を見たのか?

2011年3月13日、津波で壊滅した宮城県南三陸町中心部=山本裕之撮影 (c)朝日新聞社

2011年3月13日、津波で壊滅した宮城県南三陸町中心部=山本裕之撮影 (c)朝日新聞社

「どうしてこんなに多くの人が死んだのですか」

 私はすぐにはその質問に答えることができなかった。なぜこんなにも多くの人々が死んだのか、あるいはなぜこんなにも多くの人々が死ななければならなかったのか――。

 その問いに対する具体的な答えをイメージとして持てるようになったのは、震災から3年を迎えた2014年の春だった。私は招かれたある会合でそのイメージを言葉に変えて会場に伝えた。

「原因の一つはたぶん、メディアにあるのだと思う」

 被災地で取材をしていたとき、奇妙な光景に何度も出会った。三陸地方の沿岸部では今も至る所に巨大な石碑が建てられているのだ。石面には大抵、明治三陸大津波や昭和三陸大津波における当時の惨状が刻まれている。周囲でどれほどの死者が発生し、どの集落が壊滅したか。かつて有効なメディアを持ち得なかった人々は、目の前の惨状をなんとか後世に語り継ごうと必死の思いで言葉を石に刻み続けていたのだ。

 私は今、彼らの気持ちが痛いほどわかる。東日本大震災はその16年前に発生した阪神淡路大震災とは性質が大きく異なる。偶発的に西日本の大都市を襲った直下型地震とは異なり、三陸地方では1896年の「明治三陸大津波」で約2万2000人が死亡し、1933年の「昭和三陸大津波」でもやはり約3000人が亡くなっている。わずか百数十年の間に何度も津波の襲撃を受け、その度にこの地方は壊滅を繰り返してきたのだ。

 先人たちはおそらく知っていた。この地に再び大津波が押し寄せ、無数の命が海に奪われるだろうということを。そして、だからこそ伝えたかったのだ。人の命を奪うのは決して津波や地震ではないのだということを――。

 頻繁に見る夢の続きを、私は現実の過去として記憶している。泥に埋まった子どもの遺体を足元に見たとき、私は体の芯から声を絞り出すようにして泣いた。そしてその直後、「なぜ我々はこの子を逃がしてやることができなかったのか」と周囲をぐるりと見渡したのだ。

 近くに壊滅した小学校や低層造りの病院が見えた。多くの避難民を飲み込んだ海抜わずか数メートルの避難所が見えた。安全地帯の高台へと続く細くて険しい階段が見えた。津波の到来を見えにくくする、高くて不格好な防潮堤の残骸が見えた……。


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