青学初の箱根を走った選手

 青山学院は1区から10区まで最下位で一度も浮上できなかった。1区を走った森豊は高齢の身で振り絞るように語った。

「私は死ぬ気で走りました。やはり箱根を走れる嬉しさがありました。沿道に人はたくさんいたけど、びりは嫌だったね。すぐ前の拓大を抜きたかったけど、皆、速くてねえ。でも後の人生でもつらいときは、箱根を思い出して頑張ることができたんです」

 森は、中国戦線に赴き、旧満州へ向かう列車の中で敗戦を知る。旧満州にいればソ連の侵攻で命はなかった。

 2017年、森と一緒に箱根駅伝の復路を観戦した。元気なうちに母校の選手が走る姿を見たいという願いからだった。この年、青学は独走で優勝する。森は沿道に置かれた車椅子に座り、選手たちを見ていたが、無言だった。さりげなく表情を見ると目には涙があった。その彼が世を去ったのは、今年の5月である。97歳だった。

 現在の監督である原は、報知新聞に<大河の流れも一滴のしずくから>と森に言葉を寄せた。彼は貴重な一滴として襷を母校の優勝のためにつなげたのである。

 この文章に登場する選手たちは、すでに亡くなっている。不幸なことに、戦勝祈願の開催目的が、GHQににらまれ、この大会は箱根駅伝と認められなかった。認められたのは、1960年大会パンフレットに第22回大会と記載されてからである。決め手になったのは、43年の大会パンフと優勝盾に記された関東学連のマークだった。箱根駅伝を主催する関東学連による大会であると証明されたのである。

 新型コロナと、戦時下。時代は違うが、国民を絶望の底に追いやった状況は同じである。しかしスポーツはそんな失意のときも、人々に勇気を与える。

 あの絶望の戦時下を走りぬけた選手たちから、今大会を走る選手たちへ、そして現在へと襷は託された。それは歴史をつないだ「絆」でもある。

 今大会はどのような盛り上がりを見せるだろうか。全校の選手の走りに期待したい。

=敬称略=

澤宮 優(さわみや・ゆう)
2004年『巨人軍最強の捕手』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書に『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』(集英社文庫)、『世紀の落球 「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』(中公新書ラクレ)など多数。