日大「山の神」

 箱根駅伝の最大の魅力は5区の山登りである。この難所のエキスパートを「山の神」と呼ぶが、戦前にも怪物はいた。6位まで落ちた日大を一気に優勝戦線に戻したのは日大5区の主将・杉山繁雄の快走である。彼は旧制山形中学で地元の標高約500メートルの千歳山を毎日走って登った。そこで養成されたスタミナと強靭な足腰は、箱根の山でも十分生きた。

 杉山は塔ノ沢で5位専修大学を、大平台で4位立教大学を、宮ノ下で3位東京文理科大学を抜いた。まだ勢いは止まらない。元箱根では2位法政大も抜いて、一挙に2位に上がった。坂が急になるほど杉山は本領を発揮する。首位奪取はならなかったが、「これが最後の箱根」という悲壮な思いが日大の復路逆転劇につながってゆく。

 このとき箱根神社にいた6区の日大・成田静司は日記にこう記す。

<いよいよ明日の決戦は俺の脚にかゝってゐるのだ。やるぞ。……明日は本当に体が挫けても粉々になる気で下るぞ>

 6日、復路スタート。成田は気負いすぎ、小涌谷の手前で法政大に抜かれてしまう。箱根湯本付近では意識が朦朧となる。倒れる寸前で、伴走する監督が、彼の顔に焼酎をかけて「山手が待っているぞ」と叫んだ。

 小田原中継所には、山手学(のちフィリピンで自爆)がいた。成田はここから息を吹き返し、2位に落ちた慶応の選手を抜く。成田の好走で、以後3校はしのぎを削りながら、10区になってもデッドヒートを繰り広げた。その激戦を制したのは日大だった。10区の日大の永野常平はゴールも近い三田付近でスパートをかけて、並走する慶応、法政を引き離し、靖国神社の大鳥居にゴールした。このとき永野は大泣きで駆け込んできたという。

 全大学が完走し、2位は慶応、3位は法政、復路優勝は専修大学だった。 

 ここで不思議な光景が見られた。ゴールで待っていた選手たちは、自校、他校関係なしに、完走した選手たちを抱き合って迎えたのである。ここには敵も味方もない、ともに箱根を走る仲間なのだという思いだった。慶応大学の兒玉は言った。

「あの大会ではゴールでは皆泣いていましたね。よく走ったなと言って抱き合いましたね。箱根を走る駅伝をやれたことは幸せでした。ゴールでは僕もこれが最後だという思いがありました。その熱意が今の箱根駅伝につながっていると信じます」

 学連幹事の法政大・中根敏雄は語った。

「俺たちはひとつのことを残した。1人でも2人でも戦争から帰ってきた者がこの大会を未来に伝えることで箱根駅伝は永遠に続くだろう」

 その願いは今、コロナ禍での大会開催につながっていると信じたい。

 翌日の新聞は、写真もなく、結果と大学名、優勝チームの選手名だけを記す小さな扱いだった。そして10カ月後に学徒出陣壮行会が行われ、学生たちは戦場へと旅立った。

 日大の杉山は、3年間のシベリア抑留を体験する。目の前で同僚がソ連人に射殺された。 成田も神風特別攻撃隊として、2人乗りの飛行機で出撃したが、エンジン故障で海に墜落。彼は漁船に助けられたが、同僚は即死した。自分が生き残った事実は後々まで彼を苦しめた。

 慶応大学の兒玉も同様に、「特別攻撃隊」の人間魚雷として出撃することになった。しかし長崎県の訓練所が大空襲に遭い、出撃はかなわなかった。生き残った者にも悲しみを与えたのである。

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青山学院大「初」の箱根走者