プレー以外の面でも高く評価された元中日の小田幸平 (c)朝日新聞社
プレー以外の面でも高く評価された元中日の小田幸平 (c)朝日新聞社

 プロ野球界には、代打の切り札以外にも、控え選手ながら、10数年間の長きにわたって現役を続けたバイプレイヤーが多い。

【写真】控え選手にも温かい眼差しを向けた名監督はこの人

 そんな異色の経歴を持つ男たちの中でも、ファンの記憶に残る一人が、巨人中日で第2、第3の捕手として17年間プレーした小田幸平だ。

 三菱重工神戸時代に3年連続都市対抗に出場し、1997年の日本選手権で優秀選手賞を受賞。メガネをかけた捕手にちなんで“古田2世”と呼ばれ、同年のドラフトで巨人に4位指名された。

 だが、セールスポイントの守備はともかく、打力が弱く、重量打線が売りの巨人では、正捕手・阿部慎之助、2番手・村田善則に次ぐ第3の捕手だった。

 当時の小田は、先輩の清原和博に“カンチョー”被害にあったり、プロレス技をかけられたり、いじられキャラで有名になったが、その一方で、内角を厳しく攻めさせる強気のリードや体を張った守備には定評があった。

 05年オフ、中日の左腕・野口茂樹が巨人にFA移籍した際に人的補償として中日に移籍したことが転機となる。

 小田の守備を高く評価していた落合博満監督は「正直言って小田が(プロテクトから)外れていると思わなかったよ。大儲けと言っていいんじゃないのかな」と喜んだ。

 落合監督の下、小田は、谷繁元信に次ぐ第2の捕手として、出場機会を増やしていく。

 故障の谷繁に代わって先発出場した10年7月19日の横浜戦では、決勝の3点タイムリー二塁打を放って初のお立ち台に上り、「やりました~っ!」と絶叫。このパフォーマンスが人気を呼び、「やりました~っ!Tシャツ」が発売されるなど、ファンの間で流行語にもなった。

 投手陣の信頼厚いリードに加え、チームを明るくするムードメーカーとしても、必要不可欠な戦力であり、そんな“陰の部分”での大きな貢献も、37歳まで現役を続けられた要因と言えるだろう。

 小田以外の第2の捕手も、実働18年の野口寿浩(ヤクルト日本ハム阪神-横浜)、実働16年の山崎勝己(ソフトバンクオリックス)、実働15年の山中潔(広島-ダイエー-中日-日本ハム-ロッテ)ら、複数の球団で重宝され、長く現役を続けた選手が多い。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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