長谷至康監督も「優勝したなんて、まだ信じられません」と目を白黒させた奇跡的快挙。中村自身もプロ入り後、「上宮戦でのホームランが一番思い出に残っている」と回想している。

 校名と名字が同じ“銚子の銚子”と話題になったのが、79年夏に甲子園初出場をはたした市銚子のエース、4番、主将の銚子利夫(元大洋-広島)だ。

 同年の千葉大会は、春の関東大会Vの銚子商が本命で、東海大浦安の高野光(元ヤクルト-ダイエー)、千葉日大一の長冨浩志(元広島-日本ハム-ダイエー)、千葉工の関根浩史(元大洋)、千葉商の高田博久(元日本ハム-大洋)らプロ注目の好投手が目白押しだった。

 そんな群雄割拠のなか、長い間、全国区の強豪・銚子商の陰に隠れていた市銚子は、前年秋に内野手から投手にコンバートされた銚子が、最後の夏に成長。

 4回戦で東海大浦安を1対0と完封し、準々決勝の千葉商戦では1対1の延長16回に自らサヨナラ2ランを放つなど、全6試合を一人で投げ抜き、43奪三振、失点わずか4の力投で、見事甲子園切符をゲットした。

 そして、甲子園の1回戦、高知戦でも、銚子は4回に本塁打を放ち、3対2とリードしたが、6回に打球を左アゴに受けるアクシデントで昏倒し、病院送りとなる不運……。「甲子園に出るなら、継投より大きな柱を持つチームにしないと」という監督の方針で、控え投手を用意していなかったため、急造のリリーフが打たれ、逆転負け。ワンマンチームの弱点を露呈する結果に泣いた。

 98年夏、第80回大会を記念して初めて1県2代表となった埼玉で、上位10数校が横一線の“戦国”西埼玉を制したのが、久保田智之(元阪神)が捕手、4番、リリーフエースの一人三役を務める滑川(現滑川総合)だった。

“滑川の大魔神”の異名をとる久保田は、2、3回戦でリリーフを務め、打っても2試合で6打数4安打2打点と投打にわたって勝利に貢献。準々決勝の西武台戦では、1対0の8回1死一、二塁で、左中間に勝利を決定づける2点タイムリー三塁打。準決勝の聖望学園戦でも、1回に鳥谷敬(現ロッテ)の四球を足場に1点を先行された直後、1死一、三塁のチャンスに同点犠飛を打ち上げ、2、3回の味方の大量得点につなげた。

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甲子園で話題となった久保田のトルネード投法