個人的にも、この番組で彼らを初めて見た。そして、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。初代チャンピオンの爆笑問題の漫才もとてつもなく面白かったが、フォークダンスDE成子坂のコントも神がかり的に面白かった。

 彼らのネタには、今まで見たことがなかったような斬新なボケが詰まっていた。後ろを向いて顔に何か細工をしていると見せかけて、何もせずに前を向く「スカシ」の妙技。「芋泥棒」というルール不明の遊びをいきなり始めるというシュール系の笑い。「向き不向き……フムキムキ?」という言葉の響きだけで笑わせる圧倒的なワードセンス。

 桶田さんが次々に繰り出す鋭いボケに対する相方の村田渚さんのツッコミも完璧だった。2人は学生時代からの友人で、学生の頃にふざけて遊んでいたときの感じを芸人になってからもそのまま続けていたのだという。当時まだ22歳ぐらいだったが、彼らの芸はすでに完成されていた。

 フォークダンスDE成子坂はネタが面白い上に、見た目も小綺麗だったため、女性ファンからの人気もあった。すでに実力が認められていた彼らが『ボキャブラ天国』に出るのは、どちらかと言うと「下の世代の芸人のところに下りてきた」という印象だった。

『ボキャブラ天国』で芸人たちが作っていたボキャブラネタは、ダジャレに近いものであり、時代が変わったいま見てもそこまで笑えるようなものではない。

 だが、フォークダンスDE成子坂は、そこでも非凡な才能を発揮していた。個人的には『ボキャブラ天国』をお笑い番組としてそれほど楽しんでいたわけではないが、彼らのネタだけは別格のものとして楽しみにしていた。そのぐらい自分にとっては特別な存在だった。

 お笑い界では「面白い人は遅かれ早かれ絶対に売れる」という定説のようなものがある。フォークダンスDE成子坂も当然スターになるものだと思っていた。当時、私以外の多くの業界関係者もお笑いファンも同じことを考えていたはずだ。

 ところが、そうはならなかった。ボキャブラブーム以降はテレビに出る機会も減り、ライブで披露されるネタも「一見さんお断り」という雰囲気の難解なものが増えていた。そして、1999年に彼らは解散を発表した。伝説は道半ばで終わったのだ。桶田さんは芸人を引退し、ミュージシャン、作家としての活動を始めた。

 さらに悲劇は続いた。解散後、別のコンビで活動を続けていた村田さんが、2006年に35歳の若さで急死した。そして、ゆっくり後を追うように、2019年に桶田さんもこの世を去った。

 ボキャブラ芸人の一員だった爆笑問題の太田光が、桶田さんの死についてラジオで語っていた。桶田さんは「悲劇のコンビというふうに見られたくないので、自分の死のことは隠しておいてほしい」と妻に伝えていた。そのため、発表がこれだけ遅れたのだという。

 フォークダンスDE成子坂のネタを見る前の自分は、ザ・ドリフターズ志村けんのお笑い番組で無邪気に笑っている少年だった。それはそれで素晴らしいものだったが、お笑いのさらなる深みを教えてくれたのがフォークダンスDE成子坂であり、桶田さんだった。

 彼らのネタを初めて見たとき、お笑いという芸の深さと美しさに心を奪われた。そして、それが自分にとって生涯の楽しみになることを確信した。私が現在、多少なりともお笑いにかかわる仕事をしているのは、桶田さんという芸人がいたからなのだ。今はただ心から冥福を祈りたい。(ラリー遠田)

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ラリー遠田

ラリー遠田

ラリー遠田(らりー・とおだ)/作家・お笑い評論家。お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』 (イースト新書)など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)。http://owa-writer.com/

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