現在の東武スカイツリーラインは、北千住~北越谷間を複々線とし、ラッシュ輸送に対応している (撮影/高橋 徹)
現在の東武スカイツリーラインは、北千住~北越谷間を複々線とし、ラッシュ輸送に対応している (撮影/高橋 徹)
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開業時の駅のひとつ「杉戸駅」は日光線との分岐駅となり、機関区や工場も設けられた。1981年の東武動物公園開園に先立って改称された (撮影/高橋 徹)
開業時の駅のひとつ「杉戸駅」は日光線との分岐駅となり、機関区や工場も設けられた。1981年の東武動物公園開園に先立って改称された (撮影/高橋 徹)
草加市で行われていた高架複々線化工事の様子。1976年9月撮影 (C)朝日新聞社
草加市で行われていた高架複々線化工事の様子。1976年9月撮影 (C)朝日新聞社

 関東で最大の路線網を持つ大手私鉄、東武鉄道。最初の開業区間である北千住~久喜間が、8月27日に開業120周年を迎える。そこで、伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の歴史を振り返ってみよう。

【1976年、草加市の高架複々線化工事】

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■主力輸出品の輸送を目的に開業

 東武鉄道は東京の本所と栃木の足利を結ぶ路線と、千住と越中島を結ぶ支線を目的に、1897年に創立した。

 足利のある両毛地域は当時、養蚕・製糸・織物といった絹産業や機織産業が盛んで、これらは日本の主要輸出品であった。そこで、両毛地域から東京湾へ輸送し、輸出することを目的にしたルート選定であった。だが、千住~越中島間の申請は却下され、千住~足利間のみが許可された。そして、1899年に北千住~久喜間で蒸気機関車による列車の運行が開始された。

 現在の伊勢崎線の一部にあたるこの路線は、1902年に吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー)まで、翌03年に北側は川俣(当時は利根川の南側、現在の羽生の先)まで延伸した。

 しかし、経営は振るわず、ここから利根川を越えるには長大な橋梁が必要で、建設資金が足りなかった。そこで社長に招かれたのが根津嘉一郎である。根津は創立時の目的通り、両毛地域に路線を延ばすことが必須と考え、資金を工面して橋梁を建設。1907年に利根川橋梁が開通し、1910年に伊勢崎まで全通した。

■草加、越谷などの宅地化で一変

 その後、生糸や機織産業は主要輸出品ではなくなるが、1962年に営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線と直通運転を開始し、一大転機となる。

 そもそも日比谷線との直通運転は、通勤ラッシュを分散することが目的だったが、利便性が向上したことで逆に宅地が増えてしまったのである。同年には草加市に日本住宅公団が造成し、東洋最大のマンモス団地と呼ばれた草加松原団地の入居も始まった。

 東武鉄道は以降、通勤ラッシュの改善が最大の課題となり、路線の複々線化が進められてきた。北千住以北の複々線化工事が着手され、1974年に北千住~竹ノ塚間が、1988年に草加まで、2001年には北越谷までの複々線が完成する。

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民鉄最長の複々線区間