<平成大学史 後編>人気大学と定員割れ大学、なぜ二極化したか (2/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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<平成大学史 後編>人気大学と定員割れ大学、なぜ二極化したか

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小林哲夫dot.
※写真はイメージです(写真/getty images)

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 株式会社立大学は、小泉純一郎政権が主導する規制緩和路線の流れで生まれた。構造改革特区を作り、大学に民間企業の参入を促す。2004年、LEC東京リーガルマインド大が作られた。だが、同校は2010年に募集停止となる。同年以降、株式会社立大学は作られていない。

 競争原理にさらされているという点では、私立大学のほうが切実だった。どの大学も少子化対策として学生募集に力を入れ始める。女子の進学率向上に対応して、それまで短期大学、専門学校が担っていた看護系、福祉系、医療系に特化した学部が次々と誕生する。また、受験生の絶対数が増えないことを見越して、いくつかの女子大は共学化に踏み切った。

 どんな学部ならば学生が集まるか。大学は知恵を絞った。「コミュニティ振興」「メディアプロデュース」「感性デザイン」「国際こども教育」「社会イノベーション」など、時代を反映する、あるいは、先取りする学部が生まれた。だが、受験生には具体的に何を学べるのかといったイメージが抱けず、学生募集で苦戦し、すぐに看板を変えるところもあった。一方で、2006年に薬剤師養成課程が4年制から6年制になったことを機に薬学部が急増し、志願者を集めている。

 大学にとってキャンパスのロケーションも大切だった。1970年代から80年代にかけて、都心の大学でキャンパスの一部の郊外移転が進んだ。しかし、学生を多く集めるには利便性がよい都心にキャンパスをおかなければならない、と大学経営者は考えた。2005年、東洋大は文系学部1、2年生を朝霞(埼玉県)から白山(東京都)に移し、志願者を増やした。これが他大学に衝撃を与え、以降、都心回帰の流れは今も続いている。

 2000年代半ば、大学は学生募集、入試方法でさまざまな工夫を施した。オープンキャンパスの充実、AO、推薦入試の強化、全学統一入試の実施、インターネット出願の導入などである。


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