安土桃山時代には、医学校を設立し、織田信長や豊臣秀吉の主治医でもあった曲直瀬道三(まなせどうさん)が医学書『啓迪集(けいてきしゅう)』(1574年)を執筆。当時の戦国大名たちは自分たちが健康でいることが軍事的にも有利だと考え、曲直瀬をはじめとした名医を抱え込んだといわれています。

 漢方が日本独自に大きく発展したのは江戸時代です。一般の人たちにも教養が身につき、出版技術が発達してきたことで、多くの医学書が出版されます。また、中国清朝の医学が発展性を欠いたこともあって、独自化していったのです。

 そうしたなかで、漢方のさまざまな流派が出現します。当時の中国の伝統医学をもとにした理論重視の「後世派(ごせいは)」、最古の処方集『傷寒論』を理想とする実証主義の「古方派(こほうは)」、これらの中間である「折衷派」などです。古方派の吉益東洞(よしますとうどう)は、現代の日本漢方でもとり入れられている「方証相対(ほうしょうそうたい)」(33ページ参照)という概念をつくります。

 江戸時代の末期から明治時代にかけて多くの医学書を記し、たくさんの門人を抱えて力を持っていた漢方医が、浅田宗伯(あさだそうはく)です。

「傷寒論を重んじた浅田宗伯流が、現代の日本漢方にもつながっているといえます」(小曽戸客員教授)

■一時は衰退するも医師たちの尽力により復興へ

 1894(明治27)年に浅田宗伯が生涯を終えたことなどを機に、日本漢方は急速に衰えていきます。そして政府は1895年の国会決議で医師免許制度の一本化を決定。たとえ漢方医を目指していても、医師になるためには西洋医学の試験に合格して医師免許を取得しなければならなくなったのです。「国としては西洋医学一辺倒でしたが、抗生物質は高価なものでしたし、一般市民の生活では、漢方は廃れることなく、根づいていたのです」(小曽戸客員教授)

 一方、中国漢方も20世紀に入ると国家が進める近代化によって、軽視されるようになります。

 そうしたなか、日本では西洋医学だけでは治療できない病気を補う治療として、漢方が見直されるようになります。1910年に和田啓十郎(わだけいじゅうろう)が『医界之鉄椎(いかいのてっつい)』、1927年に湯本求真(ゆもときゅうしん)が『皇漢医学(こうかんいがく)』を出版し、これらがきっかけとなり漢方復興の機運が高まります。さらに大塚敬節(おおつかけいせつ)や矢数道明(やかずどうめい)らが漢方復興のために尽力し、当時の厚労省に処方集を提出するなどして、1967年に4処方の漢方エキス製剤が健康保険の適用となります。1976年には41処方が適用となり、医療現場で広く漢方が取り入れられるようになり、完全に復興を果たすのです。

 中国も1949年に中華人民共和国が成立すると、毛沢東が国家をあげて漢方復興プロジェクトを推進します。各地に漢方の専門大学がつくられ、教育や研究も進み、現代にも続く中国漢方が確立されていったのです。(文・中寺暁子)

■北里大学客員教授 小曽戸洋先生
東京薬科大学卒。日本大学で医学博士、文学博士を取得。日本医史学会前理事長。上海中医薬大学客座教授。

※週刊朝日ムック「家族ではじめる本格漢方2019」から