そこに降って湧いたのが、官邸からの「介入」である。中江元哉総理秘書官(当時)が、大きな段差が生じる全部入れ替えには問題があるので部分入れ替えを検討せよと、極めて真っ当な意見を言ってくれたので、渡りに船とばかりに、そういう方向に持っていった。その背後では、部下が厚労省から出向した内閣官房の参事官と周到にすり合わせをしていたようだが、彼らの頭の中は、「官邸がそう言っている」と言えば面倒な議論もなく簡単に方向性を決められるという意識になっていたはずだ。しかも、「官邸が」とさえ言えば、判断の責任も免れるのだから、一石二鳥である。

 私は、これを「自己都合忖度」と呼んでいる。外見上は、官邸の意向で物事が決まったように見せかけ、実は、官僚たちが説明や根回しの手間と責任を回避する効率的な意思決定手法である。もちろん、以前もそういうことはあったが、安倍政権の問題は、その効果が絶大であり、したがって、いたるところでこれを使う官僚が増えて、霞が関中に蔓延しているということだ。

 今回の官邸の介入疑惑は、総理秘書官から見れば、多少の下心はあったとしても、本人はあまり意識していなかったかもしれない。まともな官僚なら誰でも考えることを率直に伝えただけだと、今も本心からそう思っているのではないだろうか。

 一方の担当部長から見れば、総理秘書官が言うことは、当たり前だよなという受け止めをしたと思われる。もし、秘書官の言いなりになろうと考えたとすれば、有識者会議の報告書には、部分入れ替えだけを特定して結論としていたはずだ。しかし、実際には、両論併記的な結論先延ばしの書き方になっている。これは、後に出される統計委員会の結論に合わせるために、決め打ちを避けたというのが、官僚的センスでは正しい見方ではないかと思う。

 もちろん、総理秘書官の意向が影響を与えた可能性はあるが、その意向が、間違ったものではなく、政策的には正論だったとすれば、いくらここを追及してもモリカケ問題とは違って決定打にはなりえない。

 民主党政権の時代は、「官僚主導」から「政治主導」への転換が大々的に宣伝された。それは、本来行うべき改革が、官僚の抵抗で実現できない自民党に対するアンチテーゼとして出てきたことだ。その観点から言えば、総理秘書官が、真面目に対応していない省庁に対して、ちゃんとまともな政策をやってくれというのは何の問題もない。官邸から見れば、過去にさかのぼって政策判断の前提となる数字をガラッと変えられるのは困るという事情があったのだろうが、それは、他の省庁から見ても同じことで、決して間違った問題意識とは言えない。見方によっては、「正しい政治主導」だとも言えるのだ。

 今後、参議院に論戦の舞台は移るが、官邸の介入問題に焦点を当てても成果は期待できない。

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一方、直近の復元開始を隠していたのは…