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目が霞んでも描き続けた巨匠モネ 「白内障こそが印象派の生みの親」とまで言われた理由

連載「歴史上の人物を診る」

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早川智dot.
モネの庭園と橋(写真:getty images)

モネの庭園と橋(写真:getty images)

『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析する。今回は、印象派の画家・モネの白内障を「診断」する。

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 インフォームドコンセントは難しい。一生懸命に説明しても、話をほとんど聞かず、「お任せします」と言う患者さんも多い。ただ、手術や投薬治療の結果が思わしくないと本人はもとより特に家族から責められる。かといって確率は低くても治療に伴う可能性のある合併症や望ましくない結果を全て説明すると、「ではもうしばらく様子を見させてください」ということになる。特に緊急性の低い場合や、生命にかかわらない場合は医者も患者側も積極的にならない。その典型が印象派の大画家モネの白内障だろう。

■印象派の創始者

 クロード・モネは1840年、モネは食品雑貨商の次男としてパリの下町ラフィット街で生まれた。やがて経済的状況から、一家はノルマンディの港町ル・アーヴルに移住。10代中頃から絵に目覚めて風景画家ウジェーヌ・ブーダンに弟子入り、師匠と共に屋外での制作活動を始めた。1859年、本格的に絵画を学ぶためにパリへ出て画塾に入るが、2年後徴兵を受けてアルジェリアに渡る。しかし現地で腸チフスにかかって体調を崩し除隊した。

 帰国してル・アーヴルで療養中に、印象主義の先駆者ともいえるヨンキントに出会い、さらにパリに戻って、ルノワール、シスレー、バジールらと共にフォンテーヌブローの森で作品を制作する。彼らはマネのアトリエのあったバティニョールのカフェでサロン(官展)主流の具象画を批判して気炎を上げた。しかし、経済的には恵まれず、サロンの評価は低かったが1872年の「印象・日の出」を機に徐々に認められるようになった。1880年代には時代の寵児となり、19世紀フランス絵画といえば彼ら印象派という時代になった。

 経済的にも恵まれるようになり、フランス画壇の“巨匠”となったモネだったが、1908年ベネチア旅行(68歳)のころから目の霞みを自覚し、1912年に眼科を受診。白内障と診断された。直ちに手術を勧められるも本人は頑強に拒否。このころから、作品は目に見えてタッチが荒く、暖色がかってくる。同じ場所から「ジヴェルニーの日本風の橋」を描いたメトロポリタン美術館(1899年)の作品とミネアポリス美術館の(1922年)では同じ景色とは思えない。


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