「優作は『この世界(芸能界)で生き抜く』『役者しかない』という思いの深さは強かった。それに、表現することにおいて『俺はお前たちとは違う』という気持ちは絶対にあったと思います。これは何かをするときに大事なことです。(俳優に)なるべくしてなったと思っています」(美智子さん)

 1976年には映画「暴力教室」で主役を演じ、同年には美智子さんとの間に第一子となる長女が生まれた。1979年には主演を務めたテレビドラマ「探偵物語」が人気番組となり、名実ともに評価されるようになった。かつては無名だった一人の男が松田優作として名をとどろかせていく。美智子さんとの生活も順調かと思われたが、この『探偵物語』の共演をきっかけに現在の妻である松田美由紀さんと急接近し、恋仲となる。

■優作さんを襲った膀胱がん 最後の食事で抱いた「違和感」

 その後、1981年に優作さんと美智子さんは離婚し、別々の道を歩むことになる。しかし、その後も娘の誕生日などの節目には親子3人で食事することを欠かさず、愛情を注ぎ続けた。

 美智子さんが優作さんと最後に会ったのは1988年12月25日、長女の12歳の誕生日祝いだった。この日、美智子さんはある違和感を抱いていた。

「お酒も飲まないし、映画ではなく宗教の話が多かった。座禅がどうとか精神論を熱心に話すので、何かあったのかなと気になりました。翌年の冬、膀胱がんで亡くなったと聞いて、そうだったのかと」(美智子さん)

 優作さんの死後、美智子さんは当時の主治医に取材し、自著の中でこう記している。

<医師は優作と「心と心でつながっていた」「言葉を発しなくても通じ合っていた」と強調していたが、現実的な病状の説明は曖昧だったように思える。末期的症状を告げないことが、優作に希望をもたらしていたのだろうし、医師の判断が間違っていたとまでは言えないが、精神論がメインの会話だったとすれば、医師というよりは宗教家に近い。最後の入院で「そんなに悪くなってるなんて、どうしてあなたはいってくれなかったんだ」と話した優作の言葉は、医師への抗議の叫びではなかったのか>(『越境者 松田優作』(新潮社)から)

次のページ
病魔は優作さんを蝕んでいく