しかし、これは誤りだ。悪い事態が起きても動揺せず、次の治療に向かうためには、前もって思い描いておいたほうがいいのだ。

 こうした誘惑はたびたび襲ってくる。ほかにも嫌な気分や緊張感にさいなまれることもある。気づいたら、すりつぶす。とにかくこの一手だ。

 すりこぎとすり鉢でゴリゴリやる姿をイメージしてほしい。思いが粉末になり、風に飛ばされれば、あとには何も残らない。まっさらな気持ちで病気に向き合える。

 また、何かに「願をかける」誘惑にかられることもある。

 以前、私の新聞記事に漫画を描いて下さった漫画家、宮川さとしさんに『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(新潮社)という作品がある。そこには「この坂を1回も足をつかずに下れたら、お袋のがんは小さくなる」と、宮川さんが両足を上げて自転車にまたがる場面が出てくる。

 私自身も一昨年、がんかどうかを精密検査で調べていたころ、目の前に「7」続きのナンバーの車がいるのを見て「いいことがあるのでは」と、写真を撮った覚えがある。もちろん、いいことなど何もなかったけれど。

 願かけは、わらをもつかむ思いでいる人の心にそっと忍び込む。いったんすりつぶしても、気づくとまた新手が次をうかがっている。しつこい相手だ。

  ◇
 困難を抱えている人がすがるものの代表といえば宗教だ。

 私はもともと、霊魂や神仏、死後の世界といったものは一切、存在しないと考えている。人が神仏を頼みにすることにも冷淡なほうではないか。

 大学受験を1年後に控えた高校2年生の冬休みのことだ。正月のテレビドラマでこんな場面を見た。

 目を血走らせた宮本武蔵が寺社に駆けつける。ある勝負での勝利をまさに祈ろうとした瞬間、ハッと悟ったような表情になり、目を見開いて叫ぶ。「我、神仏を頼まず!」

 俺もやってみるかと、両親に冗談を言った。湯島天満宮など、合格祈願で知られる神社を参拝し、受験生でごった返す拝殿まで進んだところで「我、神仏を頼まず!」と声を張り上げる。そうやって周りの受験生たちの神頼みをからかう――。もちろん実行はしなかった。が、宗教に対してはいまだにそうした感覚を引きずっている気がしてならない。

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