しかし、打撃に専念できるファーストへの転向は吉と出た。入団4年目の68年に21本塁打を記録し、クリーンアップを打つまでに成長した衣笠氏は、当時の背番号28にちなんだ“鉄人28号”から“世界の鉄人”への道を歩みはじめる。

 目の高さのボール球までブーン!とフルスイングし、当たればスタンド一直線という豪快な打撃が売りの衣笠氏だが、その一方で、76年に31盗塁を記録し、プロ初タイトルとなる盗塁王を獲得するなど、足でもファンを魅了した。

 ところが、人間誰しも失敗は付き物。78年4月16日の大洋戦(横浜)の2回に二盗に失敗して以来、7月までになんと12連続盗塁死という記録をつくってしまった。

 8月13日のヤクルト戦(広島)の8回にやっと二盗を成功させ、不名誉な記録に終止符を打ったが、同年は盗塁数9に対し、盗塁死が13と失敗のほうが多くなってしまった。

 とはいえ、23年間の現役生活で13回にわたって二桁盗塁を記録。通算266盗塁は、2017年シーズン終了時点で、糸井嘉男(阪神)と並ぶ歴代39位の記録である。

 ボールを怖がることなく踏み込んでフルスイングする衣笠氏は、その打撃スタイルゆえに死球も多く、清原和博(西武巨人オリックス)、竹之内雅史(西鉄‐阪神)に次いで歴代3位の通算161死球を記録している。

 76年8月31日の中日戦(広島)では、3回に先発の高卒ルーキー・青山久人にカウント1-2からぶつけられた後、打者一巡して3番手・金井正幸にも死球を受けたことから、プロ野球史上初の1イニング2死球という“痛い”記録も達成している。

 死球といえば、79年8月1日の巨人戦(広島)7回2死二、三塁で、西本聖から左肩に死球を受けたシーンも忘れられない。

 6回まで広島打線を1失点に抑えていた西本だが、6点リードのこの回に突然制球を乱し、三村敏之、萩原康弘に続いて3つ目の死球だった。

 西本は仰向けに倒れ込んだ衣笠氏に駆け寄り、「すいません」と謝ったが、1イニングに3度もぶつけられた広島ナインは収まらない。たちまち両軍入り乱れての乱闘劇となり、広島・田中尊コーチと巨人・吉田孝司捕手の2人が退場となった。
 
 衣笠氏は病院で診察を受けた結果、左肩甲骨の骨折で全治2週間と診断され、翌日の試合に出場するのは不可能と思われた。

 だが、この時点で衣笠氏は70年10月19日の巨人戦(後楽園)以来、1122試合連続出場を続けており、飯田徳治(南海‐国鉄)の持つ当時の日本記録まであと「124」に迫っていた。

 翌2日の巨人戦、衣笠氏は「バントならできる」と訴えてベンチ入りし、7回1死一塁、大野豊の代打として出場。打席に立っているだけでも記録は継続するのに、江川卓の速球を3度フルスイングし、3球三振に倒れた。

 試合後の「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は(自分がうまく避けられなかった結果、責められた)西本君のために」のコメントも衣笠氏らしい名言である。

*  *  *

 筆者は衣笠氏が国民栄誉賞を受賞した直後の87年、たまたま担当した雑誌のイベントタイアップ企画で、主賓として招かれた衣笠氏にコメント取材をしたことがある。イベント終了後、スポーツ紙の番記者たちが帰ろうとする衣笠氏に気づくのが遅れ、会場の通路脇で見知らぬフリーライターの筆者と1対1のやりとりになったにもかかわらず、折り目正しい態度で、一問一答丁寧に応対してくれた。「何ていい人なんだろう」と感激したことを覚えている。心からご冥福をお祈りしたい。

●プロフィール
久保田龍雄
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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