実を言うと、私も彼女も、がんの闘病記は1冊しか読んだことがない。それも1度だけだ。がんは種類も進み具合も人によってまるで違う。治療法は日進月歩で進み、書かれている内容がどんどん古くなる。心の琴線に触れる描写も(私にとっては)今後の治療を考える参考にはならないことに、治療が始まってすぐ気づいた。

 誤解がないように強調しておきたいのは、がんの疑いが指摘されたら早いうちに1度は読んでおいたほうがいい、ということだ。

 自分や家族をいったいどんな生活が待ち受けているのか。知識の空白が解消されたとつかの間でも感じられれば、安心して治療に向かえる。私のように現在進行形ではなく、治療が一段落した人が書いたものならば、希望も感じられるのではないか。

 闘病記には色々な読み方がある。読書をきっかけに人生を見つめ直す人は少なくないだろう。中には、感動の涙を求めて読む人もいるかもしれない。

 私自身は、危機に直面した人がものを考えるのに少しでも役立てれば、と願うばかりだ。私の考えを否定し、「自分は違うやり方をする」と思っていただければ、それで十分だ。

 さて、私が福島で通ったスポーツクラブには「運動不足は緩慢な自殺です」という貼り紙があった。もともと膵臓がんは早期発見が難しいのに、腫瘍マーカーを利用しないことも、考えようによってはこれと似ているかもしれない。

 多少遅れたものの、マーカーでがんを見つけられて私はよかった。その後に笑い、心震わせたできごとを振り返るにつけ、そう痛感する。体の異変で発見した場合、亡くなるまであまり時間がない、とも聞くからだ。

 一方で、世間にはこう考える人もいるかもしれない。「だったら自分はマーカーをつけない。そのほうが死におびえる時間が短くて済む。もう十分に生きた」

 もしも自分が「がん」とわかったらどうするか。これまで危機を乗り越えた経験を思い出しながら、シミュレーションしてはどうだろう。「考えただけでがんになってしまいそうだ」と、気が乗らない人もいるかもしれない。だが2人に1人ががんになるということは、夫婦の片方あるいは両方がなる場合を合計した確率は4分の3ということだ。親きょうだい、友人や子どもまで加えれば、これはさらに高まる。それなのに縁起を担ぐことにどれだけ意味があるだろう。

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