僕は講演でよく、救急医の仕事はいかに人を死なせるかだ、と言います。それだけ聞けば、なんという医者だと思うだろうけど、生と死の狭間にいる人たちを相手にする時は、軸足を生ではなく死に置いておかないと、人として何かを見誤る。ヒポクラテスの時代から、医者の仕事の大半は患者の死を看取ること。死を看取るというのは、単に死亡診断書を書くために死亡確認をするだけではなくて、その人なりの死へのプロセスを作っていくことでもある。

 内科医だった頃、生きたいけれど残念ながら助からない、という終末期のがん患者さんを大勢診てきた。そういう人たちと話をしていると、彼らの人生観が見えてくる。最期までの期間を、どう生きたいのか。治療をとことん頑張るのか、自然の流れに任せるのか。3カ月後の娘の結婚式まで生きたいとか、会社が軌道に乗る1年後までは何とか、という人もいた。

 医者の務めは、そういう彼らの人生、一人ひとりの背景を背負ったうえで、病態の変化と治療に対する知識を元に、「それなら、こうしましょう」という死への未来予想図を提示することだと思う。それには、人は必ず死ぬのだという概念を持つことが不可欠だし、僕らは言わば、死への場面を演出する演出家でなければならない。そういうことすべてが、看取りじゃないのかな。

 死への未来予想図は、死を見極めないと書けない。それには、軸足を生ではなく死に置いておかなければならない。すると、そこで初めて救急医の仕事が明確に見えてくる。つまり、「あなたの死に時は、今じゃないでしょ!」という人たちを捉まえて、全力で引き戻す。それが救急医の本質であり、腕なんだよね。

 死ぬことと生きることは、常にペアで考えなければいけない。でも今は医者でさえ、「生きる」という片面だけしか見ていない。だから、90歳を過ぎた寝たきりのおばあちゃんが心肺停止で運ばれて来た時、(心臓マッサージで)肋骨を全部折りながら蘇生してチューブ入れて、なんていう「何かが違う」ことが起きてしまうんだ。

■人が死んでいく過程を子どもにも見せてほしい

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