こんな沖縄見たことない! 戦前の貴重な写真277枚に地元も驚き 地元紙記者が厳選した5枚を紹介 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

こんな沖縄見たことない! 戦前の貴重な写真277枚に地元も驚き 地元紙記者が厳選した5枚を紹介

このエントリーをはてなブックマークに追加
那覇市内にあった雑貨店の様子。庶民が日常的に生活物資を買い求めていた市場とは雰囲気が異なる。1935年当時から、沖縄にも商品経済の波が訪れていたことが見て取れる (C)朝日新聞社

那覇市内にあった雑貨店の様子。庶民が日常的に生活物資を買い求めていた市場とは雰囲気が異なる。1935年当時から、沖縄にも商品経済の波が訪れていたことが見て取れる (C)朝日新聞社

沖縄の特産品として戦前に多く生産されていたパナマ帽を作る人々。素材となるアダンなどの植物は湿られせると編みやすいため、湿度の高い洞窟内などで製作されることがあった (C)朝日新聞社

沖縄の特産品として戦前に多く生産されていたパナマ帽を作る人々。素材となるアダンなどの植物は湿られせると編みやすいため、湿度の高い洞窟内などで製作されることがあった (C)朝日新聞社

突然の雨。慌てて雨かっぱをかぶったり、傘を差したりして、自転車にまたがり、家路を急ぐ女子学生たち。沖縄本島北部にあった県立第三女学校(通称・三高女、現・名護高校)の生徒と思われる (C)朝日新聞社

突然の雨。慌てて雨かっぱをかぶったり、傘を差したりして、自転車にまたがり、家路を急ぐ女子学生たち。沖縄本島北部にあった県立第三女学校(通称・三高女、現・名護高校)の生徒と思われる (C)朝日新聞社

現在の糸満市糸満の高台から見下ろした集落の様子。軒を連ねる家々のほとんどが赤瓦屋根で漁村の豊かさを伝える。路地の突き当たりには船だまりがあるが、現在は埋め立てられている (C)朝日新聞社

現在の糸満市糸満の高台から見下ろした集落の様子。軒を連ねる家々のほとんどが赤瓦屋根で漁村の豊かさを伝える。路地の突き当たりには船だまりがあるが、現在は埋め立てられている (C)朝日新聞社

糸満の浜。麦わら帽子をかぶり、ダツなどの魚を運ぶ漁師。左側をはだしではしる子の足元辺りは地ならしされているが、さらに奥は砂場のように地面が波打っている。漁師に隠れている荷馬車は、干潮時の浅瀬から砂を運び、埋め立てに使ったという証言がある (C)朝日新聞社

糸満の浜。麦わら帽子をかぶり、ダツなどの魚を運ぶ漁師。左側をはだしではしる子の足元辺りは地ならしされているが、さらに奥は砂場のように地面が波打っている。漁師に隠れている荷馬車は、干潮時の浅瀬から砂を運び、埋め立てに使ったという証言がある (C)朝日新聞社

写真集 沖縄1935

朝日新聞社

978-4022586957

amazonamazon.co.jp

 沖縄戦で失われてしまう前の、日常の風景を写したネガが大量に発見された。モノクロの写真が映し出すのは、悲しく暗い「地獄絵図」の沖縄なんかじゃなかった。たくさんの魚を担ぐ漁師、セーラー服の女の子たち、洗練されたデパートの様子……。素朴な笑顔と、質素ながらも豊かに暮らす様子は地元の人たちをも驚かせたという。この写真が撮影された当時の様子を取材した地元紙の記者たちが「写真集 沖縄1935」(朝日新聞出版)に掲載された写真の中から、地元でも衝撃の大きかった5枚を紹介する。

*  *  *
 今回、277コマのネガが見つかったのは朝日新聞大阪本社。長い間、眠ったままだったものが社屋の引っ越しで偶然発見され、1935年に大阪朝日新聞のカメラマン藤本護氏が撮影したものだとわかった。それをもとに地元紙・沖縄タイムスの記者たちが地域のお年寄りや専門家など100人を超える人から聞き取り、当時の様子を明らかにしてきた。

 戦争ですべてが破壊される前の日常の沖縄の姿は、地元の人たちも初めて目にする驚きがいっぱいの写真群だったため、大きな反響が寄せられているという。そこで、取材を担当した記者2人に「沖縄が驚いた5枚」を選んでもらった。

 沖縄本島の那覇市、宜野湾市、名護市を取材した与儀武秀さんが選ぶのは、デパートらしき店内で女性がショッピングをする様子を写した1枚。棚には商品がずらりと並べられ、キューピー人形がディスプレイされている。壁には「ボンダンアメ」の広告がつるされているのもわかる。

「これは那覇市ウフマチ(大市)にあったデパート、『山形屋』か『円山号』ではないかと言われています。この写真を見た那覇市歴史博物館の学芸員は、品そろえの豊富さや洗練されたディスプレーに、戦前にこんな店があったなんてと驚いていました」(与儀さん)

 2枚目は洞窟の中でパナマ帽を作る男女の姿を収めた写真。天井からはランプがつるされている。

「パナマ帽作りは材料となる植物が湿っているほうが作業がしやすく、霧吹きで湿らせて作業していたそうです。洞窟で作っていたという話は聞いたことあるけど、本当にそうだったとは…と学芸員も驚いていました」(与儀さん)

 3枚目は、自転車を押すセーラー服の女子学生たち。突然の雨なのか、傘を広げたり、かっぱを着たりしている。

「セーラー服の襟に3本線が見え、県立第三高等女学校(現在の名護高校)であることがわかります。当時は卒業後は教師になる人が多い進学校で、いわゆる『いいところのお嬢さん』たち。地域では憧れのセーラー服でした。戦況が厳しくなるとセーラー服のデザインはヘチマ襟、タイトスカートに変わっていったそうなので、まだ戦争の影響が及んでいないことがわかります」(与儀さん)


トップにもどる dot.オリジナル記事一覧

続きを読む

関連記事関連記事

このエントリーをはてなブックマークに追加
あわせて読みたい あわせて読みたい