「ミスターラグビー」平尾誠二、引退後は不完全燃焼だった“キャプテンシー”  (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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「ミスターラグビー」平尾誠二、引退後は不完全燃焼だった“キャプテンシー” 

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平尾誠二さん=2015年10月撮影 (c)朝日新聞社

平尾誠二さん=2015年10月撮影 (c)朝日新聞社

 あまりに早過ぎる旅立ちだった。日本代表キャプテンや日本代表監督を歴任した「ミスターラグビー」、平尾誠二。その死去を、ラグビーの国際統括団体「ワールドラグビー」も公式SNSアカウントで悼んだ。遺族が日本ラグビー協会を通じて発したコメントで、昨年秋より胆管細胞がんで闘病していたことが明らかになった。まだ53歳だった。

 その輝かしい競技歴に端正な容姿、ダンディーな振る舞いも相まって「プリンス」とも呼ばれた。伏見工業高校(当時)3年での全国優勝はテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」でよく知られているが、同高が全国高校大会に初出場した2年時から、既にその名は高校ラグビー界に知れ渡っていた。

 同志社大学では、それまで早慶明が長く独占していた大学日本一の座を3年連続で獲得。当時は強豪と言えなかった神戸製鋼に進むと、新日鉄釜石と並ぶ日本選手権7連覇を達成した。司令塔やキャプテンとして、常に所属チームを“アンダードッグ”の立場から頂点へと導いた平尾。それは、日本代表のキャプテンになっても変わらなかった。いわば「お山の大将」のような各チームの中心選手の強烈な個性をまとめ、引き出し、日本ラグビー史上で初めて、ラグビー母国の一角である強豪スコットランドを破った。

 それまでも名キャプテンと呼ばれる選手はいたが、彼ほどに「キャプテンシー」や「リーダーシップ」の重要性を知らしめ、体現した存在はなかった。プレーで引っ張る、あるいはプレーで貢献するだけのタイプではなく、そのリーダー論や組織論はラグビーの枠にとどまらず、ビジネス界などでも幅広く評価された。その証拠に、今回の突然の訃報には、ラグビー界だけでなく、サッカー界や教育界、経済界などから哀悼のコメントが続いた。

 そんな希代のタレントは、しかし、ピッチ外でも日本ラグビー界発展のために十分に発揮された、とは言い難かった。

 1997年に日本代表の監督に就任。95年のワールドカップのニュージーランド戦で世界のラグビー史に残る大敗を喫し、どん底に落ち込んでいた日本ラグビー界の浮上の切り札としての抜擢だった。だが、99年のワールドカップでは直前の調整に失敗し、選手編成のミスもあって3戦全敗。続投した翌年も春から成績は振るわなかった。本人は4年後のオーストラリア大会を考えて若手を起用し、我慢の時期のつもりだったろう。しかし、秋のヨーロッパ遠征の大敗後、道半ばにして解任された。


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