ところが、この田部、なかなかの大物だ。プロ野球は終戦直後、現在のNPB(日本プロ野球機構)以外のリーグがあった。このリーグは47年に存在した「国民リーグ」で、田部は「結城ブレーブス」の一員としてプレーしていた。リーグ消滅後は社会人野球に転じ、都市対抗に出場。その後、33歳にしてNPBの西日本(西鉄と合併し、現在の西武)に加入している。

 記録を樹立した51年の期間中は、主に4番を打った。この年は66試合で3本塁打、28打点、打率2割4分1厘だが、前年の50年にはチーム3位の16本塁打を放った強打者。満36歳シーズンとなった52年にも「青バット」の大下弘を差し置いて4番に座ったことがあり、関口清治(後の近鉄監督=21本)、大下(13本)、「怪童」中西太(12本)に次ぐ11本塁打を放っている。

 さらに、引退後は芝浦工大の監督として、61年秋に東都大学リーグ1部で同大学を初の優勝に導いている。工科系大学としては、リーグ初の優勝だった。現在は東都3部の芝浦工大だが、岩下光一(東映)河村健一郎(元阪急、イチローへの打撃指導で有名)伊原春樹(前西武、元オリックス監督)らを輩出している。岩下はダイエー(現ソフトバンク)のスカウトを務めていたし、伊原は同じ広島県出身。野球の歴史が巡り巡って、柳田とつながっていくようで面白い。

 柳田はあと1試合四球を選ぶと、70年王貞治(当時巨人、現ソフトバンク球団会長)のプロ野球記録に並ぶ。12年春季キャンプでは、直接指導を受けた恩人。史上最多の通算2390四球(2位落合の1475四球に915個差)を選んだ恩師の前で、連続試合記録を更新できるか。

文=日刊スポーツ・斎藤直樹