こうした若い世代の傾向が取り上げられる間に、すでに一定の評価を得ていた作家の練り上げられた仕事が選出された。02年の松江泰治『Hysteric 松江泰治』(ヒステリック グラマー)、05年の中野正貴『東京窓景』(河出書房新社)、06年の鷹野隆大『IN MYROOM』(蒼穹舎)などである。松江の地表、中野の東京、鷹野のセクシュアリティー、それぞれが追い続けるテーマは異なるが、ビジュアル性と社会性の両面から、自明とされてきたものの眺め方、認識の仕方を問い直してきた労作である。彼らの純度の高い志向は、松江が受賞コメントで述べた「大切なことは遠近法や重力から写真を解放すること」という言葉に集約されるだろう。

 さらに、この時期から目立つようになったことがある。受賞の直接的な対象となる写真集の版元から大手出版社の名前が消えたのである。

日本の写真とはなにか

 出版不況のなかで、手間と経費のかかる写真集、ことに販売部数が期待できない若手作家を手掛ける大手出版社はきわめてまれになった。そこで一時的ではあるがノミネート作品が減り、審査員たちに危機感を与えた。

 ことに編集者として自らも写真集を手掛けてきた都築にはその思いが強い。岡田と志賀が同時受賞した08年の選評で「いかに写真集という存在自体が、マーケティングと営業主導の出版経営に軽んじられていることか」と嘆き、この2冊の版元である赤々舎へエールを送っている。

 赤々舎は06年に代表の姫野希美が立ち上げたばかりの零細出版社だったが、積極的に若い作家を発掘し、話題性をもった写真集を出版した。その事業はビジネスというより写真家を世に送るための活動に近く、その成果は選考結果に表れた。つまり08年から17年までの10年間で5回、計6人が同社からの出版で木村賞を受賞している。

 この赤々舎をはじめリトル・モア、ナナロク社、蒼穹舎といった小出版社、あるいは写真家の個人レーベルによる数百部程度の写真集が、ゼロ年代以降の写真表現を牽引する力となっている。その背景には、デジタル技術による印刷システム(DTP)の進化が、写真集制作のコストを下げ、小部数の出版を容易にしたという面が見逃せない。

 さらに小規模出版の活発化と比例して、自主ギャラリーの展開が再び活発になったのもゼロ年代からである。このような軽快なフットワークを持った作家やその予備軍たちは、欧米や東アジア各地の写真や美術関係者とネットワークを形成して、活動の裾野を広げていき始めた。

 ここで重要なことは、この展開の背景には、欧米における日本写真の再発見があったことだ。60年代から70年代にかけて先鋭的な展開をしていた写真家たちの人気をきっかけに、過去と現在の表現の展開にまで関心が及ぶようになっていた。

 それを示す大きなイベントとして、99年のサンフランシスコ近代美術館における森山大道の回顧展「daidoMORIYAMA :straydog」、01年にドイツで出版された『プロヴォーク』や荒木経惟の『センチメンタルな旅』( 私家版)などの復刻版を詰め合わせた
『TheJapaneseBox』(Edition7L)、そして03年のヒューストン美術館での「日本写真史展」などがある。

 この再評価の波は、日本の写真関係者に対しても大きな問いを投げかけることになった。それは日本の写真表現はどのような性質を持っていたのか、今日までどのように継承されてきたのか、ということについての自覚である。

 このテーマは表現をめぐる本誌の記事でも、大きな比重を持った。それをメインに取り上げたのが、長く続いた「フォト・ウオッチング」を引き継ぎ、07年1月号から始まった、ホンマタカシと写真評論家・竹内万里子の対談による「今日の写真」である。

 初回、ホンマは日本の写真は世界中から見て特殊だとし、その現実をここで検討したいと抱負を語った。ここでいう特殊さとは、理論やコンセプトを絶対視しない作家の態度であり、「よくいえば純粋な写真のユートピアが残っている」という地域的特性である。

 かたや竹内は日本と欧米の違いを、表現の前提にあると指摘した。欧米における写真はアートを前提としたツールだが、日本ではまず写真を制作することが重要で、アートかどうかはその後の問題となる。それが「よくも悪くも写真純粋主義をはぐくむ土壌」となったとしている。

 そんな純粋写真の代表として挙げられたのが荒木経惟と森山大道だが、竹内はその海外での評価について「珍しい動物を見ているというニュアンスもあるんじゃないか」という疑念をも挟んでいる。

 以降、対談連載を通して、日本的な純粋写真とコンセプチュアルな現代美術との間で揺れる、写真家の現状が浮かび上がっていく。ことに同年月号の「『写真と芸術』の歴史と現在」では、写真の世界的なムーブメントの変遷を概観するなかでそれが語られている。

 MoMAの写真部長だったジョン・シャーカフスキーが70年代まで主導したストレート・フォト、そのあとを継いだピーター・ガラッシのステージ・フォト、そしてベッヒャー夫妻のタイポロジーと展開してきたが、それも終わりつつあるとしたうえで、ホンマは現在の写真家たちは「ストレート・フォトに揺り戻るのか、もっと現代美術のほうにいくのか、まさに瀬戸際のところにきているんだと思います」という危機感を示したのだった。

 こうした戸惑いをよそに、欧米における日本の写真表現への関心は続き、08年11月には写真の国際的見本市であるパリフォトで「日本特集」が組まれ、そのキュレーションを竹内が担当した。翌09年1月号の特集「写真の新たな潮流はどこへ向かうのか いま注目すべき写真の仕事2009」でのリポートによると、ここで紹介された日本の写真家は130人に及び、写真集の紹介にも力が入れられ「特集国の作品がここまで会場全体にいきわたったのは初めて」(竹内)という盛り上がりとなった。

 リポートでは紹介された写真家の、現地での感想も紹介されている。そのうち老舗ギャラリーのツァイト・フォト・サロンから出品した鷹野隆大は、荒木と森山の名を挙げ「彼らが高めた日本写真の価値を、僕も含めた次の世代が引き継げるかどうかが問われますね」と語っている。

 ホンマの発言とともに、日本人自身が写真表現をめぐる歴史的なアイデンティティーと向き合う、その必要性の高まりを感じさせる発言だった。