8回が終わって、0-4で智弁和歌山は負けていた。そこから9回、5点を取ってひっくり返した。しかしその裏、宇和島東が1点を取り返して同点、延長に突入。10回に再び智弁和歌山が1点を勝ち越し、6-5で勝利。この大きな山場を乗り越えた智弁和歌山は、初の全国制覇を成し遂げた。高嶋にとっても、初めてたどりついた頂点だった。
「追いつかれて、ひっくり返した。甲子園で戦える、優勝するためには、こういう戦いをしないといけない。それを教えてもらったゲームでした」
そこから上甲との深い付き合いが始まったという。練習試合の後には、いつも杯を酌み交わした。「あのゲームから、あんたは上り坂。私は下り坂で、宇和島におれんようになったんや」と上甲は高嶋に毎回のようにそう言い、大笑いしたのだという。その上甲は宇和島東から済美に移ると、創部2年目の2004年春、センバツで2度目の「初出場初優勝」という偉業も成し遂げている。
「甲子園に出て、4-0で負けている。それをひっくり返す選手の“芯の強さ”は、練習で培われると思うんですわ。ノックで選手と話をする。怒ることもあります。選手を追い込むこともあります。いろいろな対話がある。監督と選手の絆ができ上がる瞬間だと思うんですわ」
上甲との戦いから得た教訓が、その後の高嶋の指導の中には常に貫かれていた。その1歳年下の“師”は、2014年9月に胆道がんでこの世を去ったが、高嶋は生前、和歌山から何度となく愛媛まで足を運び、上甲を見舞い、野球談議を交わしていたという。
【大阪桐蔭に勝ちたかった】
近畿大会、さらに春夏の甲子園と、公式戦6度の直接対決で智弁和歌山は一度も大阪桐蔭に勝っていない。今センバツでも、決勝で敗れた直後から「打倒大阪桐蔭や」。ことあるごとに高嶋はそう言い続けていた。
「悔いが残るのは、今売り出し中の大阪桐蔭を倒せなかったことやね」
夏、甲子園でもう一度戦う。その目標を成し遂げられないまま、退任を決意した。そんな中、8月21日の決勝戦。「実は、行ったんよ。記者の皆さんが、記者席でうろちょろしているのも見えてたよ」。甲子園のネット裏最後列に座り、高嶋は大阪桐蔭の試合を見届けたのだという。