スタジオに着き、不安で押しつぶされそうになりながら収録前に出演者やスタッフがみんな集まっているスタジオ横のスペースに顔を出すと、剛の顔を見るなり、さんまが声をかけた。「おお、パニックマン!!」。
「共演者の方々も、スタッフさんも、ほぼ全員揃ってる中で、いきなりそれです。矢継ぎ早に『聞いたで、パニック障害とかいう病気らしいな。でも、ま、しゃあないやろ。なってしもたんやから。そうや、お前“パニックマン”というコントでもしたらエエねん!!額に“P”の文字をつけて、困ってる人を助けに行ったけど、手が震えてパニックになるという設定で』と。『なんちゅうことを言うんや…』という思いもありましたけど、周りとしたら、僕の病気のことも知ってるものの、どう接したらいいのか、迷ってる部分があるわけです。その空気を察して、全員がいる前で、さんまさんが思いっきりイジることで全てのガスを抜いてくださったんです。一瞬でほぐれました」(剛)
さらに、本番直前、さんまからコソッと言われた言葉が今もアタマを離れないという。
「緊張しててもいい。怖くて仕方なくてもいい。手が震えててもいい。どんな状況でも、前に出てきたら、オレが必ずどうにかしたる。だから、何でもエエから出て来い」
また、2012年10月、たむらけんじが自身の20周年記念イベント「TKF大祭り」を兵庫・淡路島で行った際には、淡路島までノーギャラで駆け付けた。実際にそのイベントを取材していたが、さんまはエンディングに登場。進行表に記載されていた出演時間を大幅に超えて観客をドッカンドッカン笑わせ続け「オレ、ノーギャラや!どんだけしゃべらせんねん!」と言い残して去っていった。その後、主役としてステージに残されたたむらが不憫に思えるほどの盛り上がりだった。
「さんまさんの出世の仕方はとんでもなく早かった。20代前半には大阪で大ブレークし、26歳の時にはフジテレビ『オレたちひょうきん族』でスターになっていた。印象的だったのは、当時の劇場「なんば花月」のめくり(舞台横にある出演者の名前を書いた札)です。当初は“落語・明石家さんま”と書いてあったんですが、花月に出だしてすぐに形態模写などでタレント的に売れたため“落語”と書いてあるのに、出番の時はスタンドマイクで漫談をしてたんです。これではおかしいと劇場がめくりを“漫談・明石家さんま”で作りなおそうと業者に発注し出来上がってきた頃には、もう東京に行っていました。40年近くスターとして走り続け、これでもかとさんまという看板は大きくなりましたが、その看板を使ってどうやったら周りをより幸せにできるか。それが行動の端々に見えます」(古参の吉本興業関係者)
60歳を過ぎても全く“球速”が落ちないパフォーマンスもさることながら、さんまがいまだにトップランナーとして走り続ける裏には、面白さという頂を支える、広大な優しさのすそ野がある。取材すればするほど、そう強く思えてならない。(芸能記者 中西正男)