
『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析する。今回は戦国時代に織田信長、豊臣秀吉の天下人に仕えた茶人、千利休を「診断」する。
* * *
筆者の研究室には感染症や免疫学、産婦人科学の研究のために欧米やアジア諸国から留学生や、共同研究の外国人科学者がたくさん来てくれる。いろいろともてなしを工夫してきたが、安価・簡単でもっともよろこばれるのは和菓子と抹茶であることがわかり,お客さんが来るときは大学院生や秘書さんに頼んで新しい抹茶缶(これが大事)とお菓子を用意してもらうようにした。元々、茶の起源は中国であるが、粉末にして飲むという原始的な形態は廃れてしまい、大陸や台湾では花のような香りのする烏龍茶や口をサッパリさせてくれるジャスミン茶やプーアル茶が主流である。どれもペットボトルとは別物でこれはこれで非常に美味しいが、哲学や蘊蓄(うんちく)といったものはない。
日本に茶を伝えたのは平安時代初期、伝教大師最澄といわれる。弘仁6年(815年)に嵯峨天皇が近江国韓崎の梵釈寺に行幸したとき、崇福寺の大僧都永忠が自ら茶を煎じて献上したという記録がもっとも古い。
鎌倉時代に禅僧栄西が、宋から抹茶を伝え、三代将軍実朝に「喫茶養生記」を献じて茶の薬用を説いたという。鎌倉から南北朝、そして室町時代に禅寺で喫茶の習慣は伝わったが、室町時代に村田珠光が「わび茶」を創始した。これを完成させたのが有名な千利休である。
千宗易(利休)は 和泉国・堺で納屋衆(倉庫業)を営む裕福な商家に生まれた。当時の堺は諸大名の支配から独立した自治都市で利休の生家も同時代のベネチアやハンザ同盟都市のような武装市民であったが、やがて織田信長が直轄地として支配するようになる。
若年から武野紹鴎に師事していた宗易は既に茶人として名を成しており、茶頭として信長に仕えた。本能寺の変に信長が没したのちは豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585年)秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、宮中より居士号「利休」を勅賜された。