『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析する。今回は戦国時代の人気武将であり名軍師、黒田官兵衛を「診断」する。
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医学を含む科学の世界では学問上、意見の異なる相手を論破しなければならないことがある。これは学問の公用語である英語でも母国語である日本語でも同じように、なかなかストレスのかかる仕事である。言い負かされた相手も一応納得はしてくれるも何となく心にしこりが残る。これを残さないのがいわゆる「人たらし」であり、その最高の名人がかの豊臣秀吉であり、これに次ぐのが黒田官兵衛孝高(如水)であろう。
■秀吉の二大軍師
孝高は天文15年(1546年)11月29日播磨国の姫路に小領主黒田職隆の嫡男として生まれた。永禄4年(1561年)には父の仕える小寺政職の近習となり翌年には初陣を飾る。
織田家の中国侵攻ではいち早く先鋒の羽柴秀吉に誼(よしみ)を結び主君・小寺政職に織田氏への臣従を進言する。だが、政職は毛利氏との関係をも絶たず、荒木村重の謀反ではこれに呼応しようとしたために、説得のため村重の有岡城に乗り込んだが逆に土牢に幽閉される。この時、信長のもとで人質となっていた嫡男松寿丸(長政)を助けたのがライバルだった竹中半兵衛である。
小寺政職の失脚後は秀吉の軍師となったが、高松城攻めの最中に本能寺の変が起こった。変を知った孝高は秀吉に対して、今こそ秀吉が天下人となる機会であり、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという。その後も小牧長久手の合戦、四国攻め、九州征伐と秀吉のもとで大活躍する。豊前の領地を嫡男の長政に譲った後は秀吉の側近として京・大坂にとどまり、国内統一最後の小田原征伐では北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させた。ただ、文禄・慶長の役では軍監として参加したが、積極的な活躍はしていない。(あまり気が進まなかったのかもしれない)
秀吉の死の翌年の関ヶ原の戦いでは中津に帰国していた如水は、家康方として大友義統(大友宗麟の息子)を破り、九州北部を平定し島津征伐を試みるが、家康の天下平定により軍を引いた。関ヶ原で活躍した息子の長政は豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石へ加増移封を受けたが、如水自身は加増を断り太宰府天満宮内に草庵や伏見藩邸で茶人として過ごした。辞世は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。