がん患者になると、お守りやお札をいただくことが増える。通常業務を離れ、人の生き死について考える時間的な余裕も生まれる。これだけの条件に恵まれれば、いつか宗教心や宗教的な感情が芽生えるのではないか。病気になって以来、自分の心の動きを見つめてきた。

 確かにお守り、お札はたくさんいただいた。お見舞いのフラワーアレンジメントが入っていた一辺20センチ前後のバスケットに、「よく神様同士がケンカしないね」と冗談で言うほど、各地の「有名どころ」が集まっている。中には学生時代にアルバイトしていた神社を配偶者と散歩がてら訪れ、買い求めたお札もある。どれも「病気がよくなってほしい」という素朴な思いと、今の人間関係をかたちにしたもので、宗教という感じはしない。ちょうだいしてバスケットに納めたらおしまいだ。

 霊魂と神の存在を否定した思想家に明治時代の中江兆民がいる。僧侶が病室に強引に入り込み、加持祈祷(きとう)を試みた時、怒って枕を投げつけようとしたエピソードが伝わる。無宗教の告別式を始めたのも兆民だ。お守りを拒まない中途半端な私も、かくありたい、と思う。

 それでは、病身の私にとって宗教はまったく無意味なのか。考えてみると、そうでもなさそうだ。

 なるほど「宗教を頼みとしない」との思いは一貫している。それが、自分は何かにすがらない「強い」人間だという自己暗示を生み、体調が悪くても物事の判断を他人任せにすまい、との決意につながるのだ。

 宗教の存在が無意味ではない、とはそういうわけだ。ならば、感謝するのが筋に思えるが、この場合、いったいどの神仏にこうべを垂れたらいいのだろうか。

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