南海の4年間をエースとして活躍し、1976年に阪神に移籍した江本孟紀さん。新天地でも先発完投型の投手として活躍した。ところが、81年に引退に追い込まれる舌禍事件をおこす。今や球界の語り草となった「ベンチがアホやから」発言だ。ただ、そこに至るまでには多くの伏線があった。
エモやんが自身の野球人生を振り返るシリーズ「エモヤンのわが野球人生」(全5回)の第4回をお届けする。
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阪神に移籍した時の入団会見は感慨深かった。
カメラマンから甲子園のマウンドでの写真撮影をお願いされたので、ボールを投げるポーズを撮った時でした。一塁側のスタンドにある観客席が目に入りました。そう、10年前、チームメイトの不祥事で甲子園を辞退することになって、観客席で入場行進を眺めながら泣き崩れた場所です(第1回参照)。
それまでもオープン戦などで甲子園では投げたことはあったけど、今度はこの球場が「我が家」になる。世の中捨てたもんじゃないなと思いました。甲子園で投げられなかったのが、野球の神様から「どうぞ思う存分、投げてください」と言われているようなものですから。運命の巡り合わせとは、不思議なものです。
阪神時代の6年間は楽しかった。チームもみんな仲が良かった。「巨人戦にだけは勝とう」という気持ちも強かった。ただ、マスコミだけが新聞を売るために、オフになると「内紛だ」なんて騒ぎ立ててましたが。シーズンオフになるとすぐに「江本トレードか!?」なんて書かれてね。記者とは「書くのはエエけど『放出』は自分が不必要な人間に読めるからやめてくれよ」なんて言いながら、時に一面トップに名前がデカデカと出ていました(笑)。
■「アホやから」発言の伏線となった監督解任劇
阪神になって3人目の監督が、79年に就任したブレイザー。実は「ベンチがアホやから」も、ブレイザーへの処遇が伏線になったんです。
78年に球団初の最下位になり、球団社長が交代した。それで、球団が選手に対して厳しくするのではないかと戦々恐々としていた。そこで「あの社長に対抗できるのは江本しかいない」と、外様の私が選手会長になりました。それまでの阪神の選手会長は生え抜き選手だけでした。