赤間神宮
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赤間神宮境内にある平家一門の墓
赤間神宮境内にある平家一門の墓

東京・水天宮
東京・水天宮

水天宮が合祀(ごうし)されているハワイ金刀比羅神社
水天宮が合祀(ごうし)されているハワイ金刀比羅神社

 2018年は明治元年から数えるとちょうど150年目となる。来年、天皇陛下の交代とともに改元となるが、江戸時代までの改元は天皇の即位だけでなく、天変地異や災害・戦争など大きな異変に見舞われた際にも行われた。このため、大化から始まる元号は大変短い期間で変更されている。天皇が即位する際だけに改元するようになったのは近年のことで、それだけに、昭和、明治の長さは和暦上1・2位の地位を占めている。

●元号と天皇の関係は

 この和暦は、歴史資料を読む上でわかり良い指標となっているが、歴史の混乱の中で改められた元号を使わない勢力も何度かいた。もっとも知られているのが、鎌倉幕府を開いた源頼朝である。1180年、高倉天皇の崩御とともに、平清盛は自分の孫である安徳天皇をわずかかぞえ3歳で即位させ、元号を「養和」とした。しかし頼朝は「養和」を認めず、その前の「治承」を、後鳥羽天皇が改めた「元暦」となるまで使い続けたという。

 安徳天皇即位の翌年、清盛は没し、平家は瞬く間に崩壊、1183年には安徳天皇を含めた平家一族は、正統たる天皇の証しとされる三種の神器(八咫鏡[やたのかがみ]・八尺瓊勾玉[やさかにのまがたま]・草薙剣[くさなぎのつるぎ])とともに都落ちした。

●壇ノ浦に散った幼い命と平家の生き残り

 頼朝は、これら平家一族に追っ手をかけ、ついに壇ノ浦で決着をつけた。平家の最期は、かぞえ8歳の安徳天皇を抱きかかえた祖母・二位尼(平時子)が海に身を投げたことで決した。この時、三種の神器やお付きの者たちも共に海に沈んだ。

 戦の後、壇ノ浦の海中から、三種の神器のうちの2つ、八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収され頼朝の元へ届けられた。

 また、安徳天皇とともに投身した母・徳子(建礼門院)は、海から引き上げられ京へ送られた。同様に海から引き上げられた平宗盛や時忠は護送先で処刑されたが、徳子は京都の大原・寂光院で仏門へ入った。

●平家一族を祭るお宮

 平家一族を祭る社は、壇ノ浦古戦場跡からわずか1キロほどしか離れていない場所にある。現在「赤間神宮」と呼ばれる神社だ。

 安徳天皇の亡骸は翌日漁師の網にかかり、この場所にあった阿弥陀寺にすぐに奉じられた。赤間神宮の社伝によれば、7年後となる1192年に朝廷が「安徳天皇御影堂」を境内に建立している。これは、平家一族に追討を命じた後白河天皇が病に倒れた年で、天皇の怨霊が各地で語られていたこの時代のこと、朝廷の畏れは並大抵のことではなかったろう。しかしその甲斐もなく、後白河天皇は翌年そのまま没した。以後も阿弥陀寺は各方面から厚い保護を受け、建礼門院の乳母が奉仕に任ぜられている。

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