明治時代の神仏分離令により阿弥陀寺は「天皇社」に、やがて赤間神宮へ改称した。
●源平合戦が残したもの
この阿弥陀寺と平家を元にした有名な話が「耳なし芳一」である。平家物語を弾き語る琵琶法師・芳一に、平家の怨霊が取り付く話である。赤間神宮には、平家一族の墓の横に芳一堂が建てられている。
また、九州・四国地方には、安徳天皇が生き延びたという伝説が各地に残されていて、源義経生存説や平家の落人伝説とともに、さまざまな逸話が今なお語られ続けている。判官贔屓(ほうがんびいき)や源平(げんぺい)といった言葉もこの時誕生したが、今では語源を探る人も少なくなった。
●海をわたった安徳天皇
安徳天皇を祭る一番有名な場所を記しておこう。現代では安産と子授けの神さまとして知らない人はいないだろう「水天宮」がそれである。多くの人は、東京の地名でもある「水天宮」を思い浮かべるだろうが、本宮は九州の久留米にある。壇ノ浦で生き延びた女官・伊勢(のちに千代)が、筑後川のほとりに安徳天皇と平家一門の霊を祭る祠を建てたことに始まるお宮である。江戸時代に藩主・有馬家が現在の場所に遷座させ、久留米藩の江戸上屋敷にも分霊した。この江戸上屋敷のお社が、現在の東京・水天宮で、明治時代に現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転し今に至っている。ちなみに水天宮はハワイなどにも分霊され、海をわたっている。
祠を開いた千代は平知盛(父は平清盛、母は時子)の孫・右忠(すけただ)を久留米で育て、社の後継とした。この系譜は現在まで続いていて、久留米・水天宮の宮司は、つまり清盛の末裔(まつえい)ということになる。
旧暦3月24日は壇ノ浦の戦いがあった日であり、平家が滅亡した日として記録されている。こののちも、源氏の平家狩りはすさまじかったとの逸話が各地に残るが、830余年を経た現在、果たして平家は滅亡したのか疑問が残る。何しろ、上野の清水観音堂に鎮座するご本尊は、鎌倉で斬首されかけた平盛久を助けた観音として知られている仏さまだ。この話は平家物語で語られ、能の演目にすらなっている。
鎌倉美術の影響が色濃く残る神社仏閣にさえ、平家の面影がそこかしこに残っているのはなんとも皮肉なことである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)