その後ロサンゼルスに戻ったジャクソンは、ローレルキャニオンやトルヴァドゥールを中心にしたサークルでも注目されるようになり、デイヴィッド・ゲフィンが興したアサイラム・レコードと契約。いや、この書き方は正確ではない。ジャクソンの才能を認めたゲフィンが契約先を求めて動き回るうち、「自分でやろう」ということになって起業したのが、アサイラムだったのだ。ちなみにこのころ、ジャクソンはグレン・フライと知りあっていて、なかなか書き上げられずにいた曲を彼の助言を得て仕上げたのが、あの「テイク・イット・イージー」だった。
1972年発表のファースト・アルバム『ジャクソン・ブラウン』から「ドクター・マイ・アイズ」「ロック・ミー・オン・ザ・ウォーター」がシングル・チャートでもヒットを記録し、ジャクソンは広く知られる存在となった。その成果ということでもあったのか、翌73年秋のセカンド・アルバム『フォー・エヴリマン』は、エルトン・ジョン、ジョニ・ミッチェル、クルセイダーズのウィルトン・フェルダー、すでに「テイク・イット・イージー」をヒットさせていたイーグルスのメンバーなど多くの大物アーティストが参加していた。本人が歌う「青春の日々」と「テイク?」は、ここではじめて、作品化されている。
そして1974年の春ごろ。『フォー・エヴリマン』とは感触の異なるものをということだったのか、あるいは、経済的な事情からだったのか、ジャクソンは、マルチ弦楽器奏者デイヴィッド・リンドリィを中心にしたライヴ・バンドのメンバーだけをスタジオに呼び、数週間で『レイト・フォー・ザ・スカイ』を完成させたのだった(コーラスにはイーグルスのドン・ヘンリー、ダン・フォーゲルバーグ、J.D.サウザーなど親しい音楽仲間が参加している)。このシンプルな制作姿勢は、結果的に、たとえばサウンドやグルーヴの統一感など、とてもいい効果を生むことになったと思う。