私の気がかりも配偶者のことだ。
最初の手術で入院したときは彼女の親戚宅に頼み、泊まらせてもらった。真っ暗な自宅にひとり帰れば、ものごとを悪い方向に考えてしまう。にぎやかな家で待っている親戚とおしゃべりし、少しでも笑いながら過ごしてほしい。そう思ったからだ。
取り巻く環境はまったく違う。それなのに、つい劉霞さんを私の配偶者と重ね合わせ、案じていることに気づく。いまだに当局の監視下に置かれ、故人の追悼に専心できないことがどれほどつらいか。昨年12月にはこんな詩を書いたと報じられた。
「私は植物のように生きている。死体のように横たわっている」「私は独りつぶやく。おかしくなりそうだ。こんなに孤独で、話をする権力もない」
それでも、彼女を思うとき、目に浮かぶのは、なぜか笑顔の写真だ。ネット上に漂う数多くの泣き顔の写真と違い、ありし日の夫の隣で信頼しきったように笑っている。むろん夫も。そこでの2人はいつも笑っている。
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