歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将や歴史上の人物がどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した北条早雲の症例を紹介したい。
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【北条早雲(1432?~1519)】
還暦を過ぎてもまだまだ元気な人が多い現代だが、戦国時代にかつての定年年齢を過ぎてから歴史の表舞台に登場し、時代を先駆けた武将がいる。北条早雲である。
早雲の本名は伊勢新九郎長氏(盛時という説もある)。生年は1432(永享4)年、父は備中荏原荘(現・岡山県井原市)の領主で足利義政の申次衆(側近)伊勢盛定、母は同じく伊勢氏で政所執事の伊勢貞国の娘であった。
応仁の乱(1467年)当時は将軍足利義政の弟の義視に仕え、後に義政の後継者・義尚の申次衆となった。応仁の乱で妹が嫁いでいた東軍の駿河守護今川義忠が、西軍の遠江守護斯波義廉方の家臣に討ち取られると、幼少の嫡男龍王丸を助けるために京から駿河に下って上杉の家宰太田道灌と談判し、今川家の内紛を収める。この働きにより元服した龍王丸(氏親)の後見人として伊豆との国境の興国寺城を与えられる。さらに幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚、嫡男氏綱が生まれた。伊勢新九郎56歳の展開である。
当時、伊豆は堀越公方足利政知が支配していたが、1491年に政知が没すると、長男茶々丸が側近を率いて、継母円満院と異母弟潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。潤童子の兄で出家していた清晃による茶々丸追討の指示を受けた早雲は伊豆を攻略、堀越御所の悪政を廃して善政を敷いたため領民の歓迎を受ける。1495年9月には隣接する相模の大森氏の居城小田原城を、鹿狩りを装って入った箱根山から急襲し無血奪取、本拠とする。山内扇谷両上杉を平らげ、82歳にして自ら陣頭に立って要衝油壺にこもる相模の名門三浦一族を攻略、古都鎌倉を含む全相模の支配権を確立する。家督を氏綱に譲った翌1519(永正16)年没した。享年88。
もともと幕府の高官でありながら領国を得ると法治による支配を強化し、以後五代百年にわたる関東の主となった。国盗りのためにはかなり阿漕なこともやった早雲だが、善政と古典の教養のためか、同じようなことをした斎藤道三や松永弾正に比べて後世の印象は良い。
早川智
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