■見開いた眼は

 赤いだるま人形はかなりデフォルメされているが、禅寺には達磨大師の肖像(厳密には禅画)が飾られることがある。古くは鎌倉時代の絹本著色達磨図(国宝)、江戸初期の宮本武蔵、新しくは江戸中期の白隠まで、彫りの深いアーリア人の風貌と髭、大きく見開いた眼が特徴である。

 米国の内分泌学者Greerは、達磨大師がGraves病(Basedow病)に罹っており、その為に眼球突出ではないかという仮説を提唱した。甲状腺疾患は女性に多い疾患だが、Graves病は比較的男性にも多く、発症年齢は30~50歳代で達磨に矛盾しない。甲状腺機能亢進症では感情の起伏が激しいのが特徴だが、これを克服するためにも長い座禅を組んだのだろう。Greerは触れていないが、甲状腺機能亢進症では振せんや頻脈、発汗に加えて低カリウム性の周期性四肢麻痺をきたすことがある。これが手足を失ったという伝説の根拠かもしれないと筆者は推測する。下肢の筋力低下をきたすことも少なくないので、達磨には坐像が多いのかもしれない。

 ただ、甲状腺の腫大を見ることができる肖像は筆者の調べた限りわが国にも中国台湾にも見当たらない。中国本土の少林寺では拳法を含む易筋経が達磨の残した遺産の一つと考えられ、道教とも習合して日本とは異なったイメージを持たれている。筆者は高校生の頃に読んだ「一切の心の起こらぬところが禅の出発点となる。心を起こさぬのではない。心がおこらないのである」との柳田聖山の一節(上山春平・梶山雄一編著『佛教の思想』1974)が気になっていたが、9年の間、壁に向かって禅を組み、様々な雑念や感情の起伏を克服しえたのが禅宗の開祖たるゆえんであろう。

 瞑想と自己対話を愛したローマの哲人キケロは何事にも動じない倫理的強靭さをnil admirariとして知的生活者の条件としている。洋の東西を問わず、優れた知性は同じ方法で悟りに至ったのであろう。書き残したものはキケロのほうがはるかに多いが、これは東西文化の相違だろうか。

(文/早川智)

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