バセドウ病で振せんや頻脈、発汗に加えて低カリウム性の周期性四肢麻痺をきたすことがあり、「これが手足を失ったという伝説の根拠かもしれない」と早川智医師は指摘する (※写真はイメージ)
バセドウ病で振せんや頻脈、発汗に加えて低カリウム性の周期性四肢麻痺をきたすことがあり、「これが手足を失ったという伝説の根拠かもしれない」と早川智医師は指摘する (※写真はイメージ)
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 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、禅宗の開祖、達磨大師を診断する。

*  *  *

【達磨大師 (5世紀後半?~6世紀前半?)】

 初詣はどこも大変な人出である。

 長い行列を終えて、帰りは露店で甘酒や縁起物ということになるが、筆者が毎年出かける実家近くの神社ではだるま市が開かれている。数センチのミニだるまから巨大なものまで様々である。数年前に小ぶりのものを買い求め、教室の先生がメジャーな雑誌に論文を送る時に片目を、アクセプトが決まると杯を上げて両目を入れていたが、数が増えて棚に場所が足らなくなって、いつしかやめてしまった。

壁の前で9年

 さて、だるま人形のモデルは実在の人物、菩提達磨で禅宗の開祖であるという。

 魏の撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』(547年)などによると、達磨は南天竺国・香至王の第3王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第28祖になったということになっている。胡人(ペルシア人)であったという説もある。海を渡って中国へ布教に来た達磨は普通元年(520年)当初南朝(梁)の治める広州に上陸したが、受け入れられず北魏に向かい、嵩山少林寺において壁に向かって9年座禅を続けたという。これが、禅宗でいう壁観(壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅)を体現したものであるという。

 永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したが、パミール高原で片方の草履のみを手にした達磨を見かけた者があり、墓にはもう一方の履物しか残っていなかったという伝説がある。禅宗はやがて臨済宗、曹洞宗などの五家七宗に分かれ、日本には鎌倉時代に伝来し、本家であるインドや中国で衰退したのちも特に武士の間で広く受け入れられた。庶民の間にも達磨大師が面壁9年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が生まれ、縁起物のだるま人形になったという。

見開いた眼は

 赤いだるま人形はかなりデフォルメされているが、禅寺には達磨大師の肖像(厳密には禅画)が飾られることがある。古くは鎌倉時代の絹本著色達磨図(国宝)、江戸初期の宮本武蔵、新しくは江戸中期の白隠まで、彫りの深いアーリア人の風貌と髭、大きく見開いた眼が特徴である。

 米国の内分泌学者Greerは、達磨大師がGraves病(Basedow病)に罹っており、その為に眼球突出ではないかという仮説を提唱した。甲状腺疾患は女性に多い疾患だが、Graves病は比較的男性にも多く、発症年齢は30~50歳代で達磨に矛盾しない。甲状腺機能亢進症では感情の起伏が激しいのが特徴だが、これを克服するためにも長い座禅を組んだのだろう。Greerは触れていないが、甲状腺機能亢進症では振せんや頻脈、発汗に加えて低カリウム性の周期性四肢麻痺をきたすことがある。これが手足を失ったという伝説の根拠かもしれないと筆者は推測する。下肢の筋力低下をきたすことも少なくないので、達磨には坐像が多いのかもしれない。

 ただ、甲状腺の腫大を見ることができる肖像は筆者の調べた限りわが国にも中国台湾にも見当たらない。中国本土の少林寺では拳法を含む易筋経が達磨の残した遺産の一つと考えられ、道教とも習合して日本とは異なったイメージを持たれている。筆者は高校生の頃に読んだ「一切の心の起こらぬところが禅の出発点となる。心を起こさぬのではない。心がおこらないのである」との柳田聖山の一節(上山春平・梶山雄一編著『佛教の思想』1974)が気になっていたが、9年の間、壁に向かって禅を組み、様々な雑念や感情の起伏を克服しえたのが禅宗の開祖たるゆえんであろう。

 瞑想と自己対話を愛したローマの哲人キケロは何事にも動じない倫理的強靭さをnil admirariとして知的生活者の条件としている。洋の東西を問わず、優れた知性は同じ方法で悟りに至ったのであろう。書き残したものはキケロのほうがはるかに多いが、これは東西文化の相違だろうか。

(文/早川智)

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