山田太一さん (c)朝日新聞社
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加藤剛さん (c)朝日新聞社
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「人がやったことはやらない」をドラマ作りの信条とする近藤晋プロデューサー(2017年2月逝去)が、「黄金の日日」に続いて手掛けた1980(昭和55)年の大河ドラマ18作目となる「獅子の時代」は、何から何まで異例ずくめの大河とし今でも異彩を放っている。その主な“異例”を列挙すると以下のようになる。

【さわやかな笑顔の加藤剛さんはこちら】

(1)原作がない
(2)大河初のヨーロッパ・ロケを敢行
(3)音楽担当が“ロックの旗手”宇崎竜童(NHK交響楽団とダウンタウン・ファイティング・ブギウギ・バンドの共演!)
(4)明治維新の陰の部分を描いている(秩父事件)等々

(1)について近藤プロデューサーは次のように語っている。

「明治に関する文明開化論は、二つに分かれています。明治の政府があったから日本の近代化があったのだという論と、あのような急速な政治があったから後の軍閥ができ悲劇が起ったのだという論です。明治を描いた小説はたくさんありますが、いずれもどちら側かに寄せて描かれたもので、両者を描いた作品はありません。私はこの両者を同時に描きたかった。この両者が明治を織りなしたからです。適当な原作がない以上、オリジナルしかありません。そこで実力者山田太一氏以外にないと思ったのです」(大原誠箸『NHK大河ドラマの歳月』)

 そんな近藤氏の意欲的なオファーを受けた山田太一さんは以下のように答えている。

「会津を歩き、鹿児島を訪ね、水戸を見、パリ、マルセイユを歩いた。準備の段階で、私はスタッフの熱意に何度も驚かされた。パリのコンコルド広場に立ち、ここを徳川昭武の馬車が通るなどということは不可能でしょうけど、と言いかけると『やろうじゃないですか』というのである。二車線・三車線などというものではない、四、五台並んで走っているこの自動車群をどうしようというのか? すると『止めようじゃないですか』というのである」(『NHK大河ドラマ・ストーリー』)

 実際にドラマではコンコルド広場を走る昭武が乗った馬車、幕府の訪仏使節団数十数人がリヨン駅のホームを歩くシーンが撮影されている。大河ドラマのみならず日本のテレビドラマ史上、画期的なロケーション撮影によるシーンの背景はこうだ。

 倒幕をめぐって風雲急を告げる1867(慶応3)年、パリ万国博覧会に幕府は将軍徳川慶喜の弟・昭武を派遣。一方、倒幕派の薩摩はこれに対抗し独自に使節を派遣した。幕府と薩摩、2つの使節団の間で一触即発の状況の中、幕府随行員として赴いた会津藩の下級武士・平沼銑次(せんじ)と薩摩藩郷士の苅谷嘉顕(よしあき)は宿命的に出会う。その刈谷に加藤剛さん、平沼に故・菅原文太さんが扮した。

 加藤さんは、「風と雲と虹と」で大河の主演を果たした4年後の「獅子の時代」を執筆した山田太一さんについてこんなふうに語る。

「山田太一さんとは私が木下恵介監督の『新・喜びも悲しみも幾年月』『この子を残して』に出演したときの助監督だったという縁がある人です。その後、山田さんがテレビドラマをお書きになっていたのでぜひ山田さんの作品に出たいと思っていました。それがかなった嬉しさで一心に演じました」

 パリから帰国した苅谷と平沼を待ち受けていたのは、官軍による江戸制圧という事態だった。嘉顕は政府の中枢に仕え新国家建設の理想に奔走し、銑次には鶴ヶ城落城とその後の下北半島斗南での過酷な運命が見舞う。そして時代は戊辰戦争、西南戦争、秩父困民党蜂起へと激しく展開していく。

 加藤さんはドラマについてこう語る。

「私が演じた苅谷は薩摩藩の藩命でロンドンからパリに渡りパリ万博を体験して維新の日本に帰ってくるという特異な体験をした武士です。『大日本国憲法』の草案作りをとおしてより良い日本を作るために奔走しますが、なかなか思いどおりにはいかない。その苅谷の苦悩が現代の日本に繋がっていると思います。明治の時代に生きた武士の悩みは現代の青年の悩みに共通するものがありますね」

 苅谷は、江藤新平(細川俊之)の部下、あるときは大久保利通(鶴田浩二)、伊藤博文(根津甚八)に使えて理想の憲法作りに奮闘するが志半ばで凶刃に倒れる。

 山田脚本が素晴らしいのは、時代の流れに翻弄される側の視点を主軸にしながら、社会の変化を多面的に鮮やかに描いている点だ。“明治維新”がいまだに“無血革命”というフレーズで語られることが多いが、どれだけ多くの血が流され、無辜の民の犠牲の上に成り立ったかを根底に据えた作家とプロデューサーの視点は秀逸だ。“反明治政府史観”ドラマ「獅子の時代」は、“明治維新”を見直すきっかけになった大河ドラマとして今も生きている。(植草信和)