私のすい臓がんも完治しないし、長い共存も期待できない。だから、誰かに「死ね」と言われても、やっぱり同じような顔をしてしまう気がする。命の重さを相手が理解していることに、ほっとしながら――。
それに比べたら、病気のことを少々言われても気にはならない。むしろ気になり、知りたい気持ちがどんどん強まっているのは、コメントをくれる方々のことだ。いま、どんなことに楽しさやつらさを感じ、何を大切にして日々過ごしているのか――。
これは興味半分ではない。
前に書いたことだけれど、私自身、抗がん剤の副作用でしんどかったときに、近くではしゃぐ見知らぬ子どもが「小鬼」のように思え、「去れ」と心の中で念じたことがある。自分だと気づかれないところで言葉を尖(とが)らせることと、匿名でコメントすること。その心境を推し量ると他人事に思えず、何か事情があるのではと考えてしまうのだ。
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週末の繁華街に出かけると、大勢の人たちがいる。ぐるりと見渡せる範囲内の人と、新聞記者としてこれまで会ってきた人。どちらが多いだろう?
取材では、いろいろな生き方に驚くこともあれば、人間同士たいして違いはない、と感じることもあった。時には、記事を通じて役立てないだろうか、という気にさせられた。だから、匿名のコメントは見ないほうがいいと忠告してくれる人がいても、けっきょく読まずにはいられなかった。
好意的でないコメントの一部には、あのときの自分のように、不安や辛さを抱えている人もいるのではないか。個人的な事情だとしても、政治や行政が絡むとしても、人に話すことで頭が整理され、気持ちがやわらぐことがある。もしその相手が自分でよければ、コメントで触れてもらえないだろうか。
まず私にできるのは読むことだけだし、その時間がどれぐらいあるかはわからないけれど。