今にして思えば、子どもが鬼だったわけではない。そう感じた自分の心の中にこそ鬼がいたのだ。体のしんどさでさいなまれた心に、鬼はそっと忍び寄る。目の前の幸せを、幸せと当たり前に感じられるためには、近づいてくる鬼に早く気づき、自分が内側から食い破られ、飲み込まれる大きさまで育つのを防ぐしかない。
●毎日30粒の薬を3食にわけて飲む
点滴を受けるのは抗がん剤が約10日にいっぺんで、14時間にわたる栄養剤が週2回のペースだ。毎朝、痛み止めなど2種類のテープを張り替える。さらに30粒の薬を3食にわけて飲む。
そのうち11粒を配偶者が小皿にあけるカチンカチンという音が、私にとっての朝だ。
夏真っ盛りのころであれば、日が昇るのを待ちきれないように、あたりでセミが鳴きはじめる。近所の神社のそばを通ると、大合唱に全身を包まれる。うるさい、と身をこわばらせることはない。短い一生を終える前の荘厳な営みと思えるうちは大丈夫だ、と思う。
「鳴け、鳴け」。思いに応えるように、鳴き声が背中から追いかけてくる。