生活相談の窓口も設置されており、毎日たくさんの外国人が訪れる。結婚生活の悩みから、ネズミ駆除の問い合わせまで、日常生活に関する雑多な相談が寄せられるという。
外国人の場合、例えば語学学校をやめればビザは失効となるし、仕事を変えれば新しい職場を通して滞在許可の変更手続きをする必要がある。外国に住む日本人も、同じように滞在許可に対する役所手続きはひとつの重労働となっている。プラザには入国管理局と連携した「外国人総合相談支援センター」が置かれており、こうした在留資格に関する相談に乗っている。
どうしてこれほど、新宿には外国人が多いのだろうか。歴史をひもといてみれば、この土地は古くから「よそもの」を受け入れてきた土壌がある。
はじまりは戦国末期のことだ。関東を支配していた北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、秀吉は徳川家康を据えて江戸の開発を命じた。このとき家康が同道していたのが、のちに鉄砲同心と呼ばれる警護部隊。鉄砲百人組ともいわれる。彼らが駐屯していたのが、新宿・大久保の周辺だ。時が江戸幕府に移ってからも彼らは定住し、やがて駐屯地の一角は「百人町」と呼ばれるようになっていく。いまでも百人町の地割が細長いのは、当時の武家屋敷の名残だ。
江戸時代に入った新宿は甲州街道の要衝として栄え、日本各地から人々が集まる場所になっていった。さらに、明治から大正にかけては小泉八雲や国木田独歩、島崎藤村など、そうそうたる文化人が好んで大久保周辺に移り住み、文芸の街として知られた時代もある。昭和に入ると、都内最大級の繁華街である歌舞伎町には外部から労働者が流入していく。
そして現在は、歓楽街の後背地で、交通の便が良く、住むにも働くにも便利な新宿区に外国人が集まってくる。他文化を受け入れる気質は、400年をかけて養われていったものなのだ。
そんな新宿でいま目立つのは、若い留学生の姿だ。ベトナム、ミャンマー、タイ、ネパール……。
「新宿には、日本全国にある日本語学校の10%が集まっていると聞いたことがあります」(鍋島さん)