別れを惜しまれているのは船だけではなく、総指揮官である船長も同じである。京極精一さん(66)は1998年10月から船長として操船にあたり、船員はじめ乗客や島住民から慕われてきた。

 小笠原航路は八丈島を過ぎてしまえば、父島まで寄港できる有人島はない。乗客たちが宴会で盛り上がったり、眠りに落ちていたりする中、大洋を運航する孤独な船の安全を守るプレッシャーは大きいに違いない。

「とにかく事故がなく到着することが絶対。休息中でも時化(しけ)になれば操舵(そうだ)室に呼ばれて、速度を変えたりコースを変えたりの判断が必要です。でも1日中続く時化なんてめったにないんです。苦しくても4〜5時間頑張れば凪が来ます。人生と同じ? そうかもしれませんね」。

 京極さんは船長としては2010年11月にいったん退任している。しかし、「最終航海の船長になる」ことがずっと夢だったので、6月にふたたび舵を取った。
「小笠原航路で長年海を見てきました。長い船人生の間には、真夜中に浮かび上がる虹や真っ白なクジラを見たこともあります。みなさんが眠っている夜中には、夜光虫が船の回りに光をまき散らすこともありとてもきれいです。でもそういう珍しいものを見ることより、何事もなく無事に港に着いたときが一番うれしい」。

 最近は船内でも、スタッフたちが雑談で最終航海を話題にしているのを耳にする。「最後はきっと泣いてしまう、だって私の青春そのものだから」そんな声も聞こえた。京極さんはどうだろうか。
「泣くかどうか? 分かりません。私は子どもの頃から母親に『男は血を見る(けがする)まで泣くもんじゃない』と言われて育った世代。最後の航海でどうなるかは想像できませんね」。
 
 先代のおがさわら丸は最終航海の日、普段は禁止されている紙テープが解禁され、桟橋と船が五色の色彩で彩られた。このときは爆弾低気圧が発生し、東京到着が午後11時近くになったが、竹芝港にもわざわざプラカードや花を持ち、船と船長を出迎える人があふれていた。

 今回の父島最終航海出港時には、桟橋には前回よりもさらにたくさんの人びとであふれ、別れを告げる人が押し寄せるに違いない。(島ライター 有川美紀子)