



同じ年にたまたま生まれついたというだけで、それぞれが音楽を表現する才能を持っているというだけで、こんなに痛快な世界が生み出されるのか。
次から次へと行われる多種多彩なパフォーマンスの数々に接して、豪華な音楽フェスティバル、あるいは昭和の歌謡特別番組を見ているような、懐かしい満腹感に包まれた。
3月27日、日本武道館。1966年生まれで今年50才になるアーティストが集結し、ライブ・イベント《ROOTS66-Naughty50-》の東京公演を開催した。ふだん別々に行動しているメンバーが一堂に会し、自らの代表曲に加え、この時限りの顔合わせで敬愛する先輩アーティストたちの楽曲も歌いあげるという、一期一会感にあふれた3時間だ。
出演はスガシカオ、トータス松本、田島貴男、大槻ケンヂ、吉井和哉、斉藤和義、宮田和弥、増子直純、渡辺美里、斉藤由貴ら、いずれ劣らぬ個性派ばかりだが、お互いの歌唱や演奏を引き立てながら満面の笑みでステージに立つ姿は“同窓会的なごやかさ”満載。そこには、音楽界、芸能界で長期間を生き抜いてきた者どうしだからこそ通じ合える僚友のような感覚もあるのかもしれない。
客席に目を移すとこちらもステージの出演者と同じ時代に青春を過ごした人々が会場を埋め尽している。この年代の観客は、躍動的な曲では盛大に手拍子や声援を送り、バラードにはしっかり耳を傾けている。演奏中にスマートフォンを操作するなどといった、不作法な姿はほとんど見かけない。
ここ数年のライブでは、パフォーマンス中に客席でスマホの光が点滅することもしばしばだ。だが、このコンサートに集まった人たちは、 遠くにいる人とリアルタイムで感動をシェアするより、まずは、この場にいる人たちの間で感動を共有し、後にしかるべき相手にこの感動を伝えればよいと考える世代なのだろう。音楽の中に身をゆだねること、それこそが個人的には美しい「ライブ・ミュージックのたしなみ方」であると思うのだが。
1966年は60年に1度の丙午(ひのえうま)の年。出生数は前年より25パーセントも少なく約136.1万人。私は1970年生まれの“団塊ジュニア”にあたり、小学生の時は同級生が多すぎたため、増設されたプレハブの校舎で春夏秋冬を過ごしたこともある。そんな自分にとって、絶対数の少ない丙午の人たちは、うらやましさの筆頭株だ。競争率が低いから受験戦争も厳しくなかっただろうし、人数が少ないからひとりあたりが注目される率も高かったはずなのだ。