「新幹線のルートが問題になる以前、1996年に湿地の核心部にガス会社により液化天然ガスの基地ができる計画が持ち上がっていたのです。しかし、この湿地の重要さを知る地元の自然保護団体が中心となって保護活動を展開し、2002年にこの計画は中止されました。それを受けて、湿地の保護を進めるためにラムサール条約登録を目指すこととなり、市民と敦賀市の尽力の結果、晴れて登録となった直後の新幹線ルート発表だったのです」。(福田さん)。
北陸新幹線のルートについては1996年に一度ルート案が発表されており、この際にはうしろ谷を通らないルートとなっていた。ところが、新たに発表されたルートは150mも湿地内部側に移動しており、うしろ谷を貫通するものに変更されていたのである。最初に想定されたルートだとカーブが多くなり、できるだけ直線でスピードを増したい新幹線には不適と判断されたらしい。
ところで、もともと中池見湿地は人の手が入った「里山」だった。泥炭湿地は耕作地としては不向きだが、この土地の人々は江戸時代から苦労して水田を作っていた。時代の変化で耕作放棄地が増えたとき、ガス基地計画を持っているガス会社がこの土地を買い上げたのだが、計画が頓挫した際、買い上げた土地を敦賀市に寄付した。水田として使われていた間は手が入り、里山としての自然が豊かだった中池見湿地も当時はやや荒廃している部分もあった。それを「豊かな自然を取り戻そう」と、ふたたび手入れを始めたのは湿地を愛する市民たちだった。体験型の田んぼをはじめ、自然観察会や保全活動をして自然を守ってきたのである。
当然、新幹線ルートについても市民は立ち上がった。NPO法人ウェットランド中池見はじめ地元団体は事業主体である独立行政法人 鉄道建設・運輸施設整備支援機構(以下、機構)あてに計画の見直しを訴える要望書を送り、保護運動を展開。NACS-Jなど全国的な自然保護団体も運動を後押した。
「そんな中、NACS-Jがスイスのラムサール事務局を訪問する機会があったのです。そこで事務局長のクリストファー・ブリックス氏に現状を話すと、なんと、仕事で来日する予定があるというので、ぜひ、登録湿地である中池見を視察してほしい、そして事業主体である機構と話をしてほしいと要望したのです」(福田さん)。
2014年4月、視察および機構との対話は実現した。この一件はニュースにもなり、中池見湿地の重要性をあらためて世に知らせることとなった。こうした動きが功を奏したか、そののち急転直下、ルートの再検討がなされ、最終的にうしろ谷を貫通しないルートを選択することで決着したのである。
このルート変更は、国を挙げた新幹線ほどの大事業でも、自然への影響を無視できない世の中になってきたという証である。小さな生きものであるトンボや、一見利用価値がないように見える湿地が、なぜ貴重な環境なのかについての理解が関係者に浸透した結果であると言える。
また、そのうしろにずっと中池見をささえ、愛してきた市民がいたことを忘れてはならない。その存在こそが、関係者の認識を新たにし、新幹線ルートを変えた真の立役者だろう。(島ライター 有川美紀子)