哀愁の調べが似合う町並みには、哀悼の雰囲気が漂っていた。富山市八尾町は、毎年9月1日から3日間にわたって行われる「おわら風の盆」の舞台である。6月13日に亡くなった直木賞作家、高橋治さんはこの町を舞台に30年前、小説『風の盆恋歌』を書いた。作家が愛したおわら風の盆の魅力を聞いてみたい。
「踊り手の浴衣の柄を見て、11町のどこの踊りか分かりますか? 区別がつくようになるまで見に来てね。奥は深いですよ」
『風の盆恋歌』に登場する店のモデルとなった八尾町上新町の喫茶店「明日香」の女性店主はこう話す。「もっと、勉強してからいらっしゃい」とも。「一見さんには厳しいのか」と思いきや、娘さんお手製の解説が書かれた冊子を渡してくれた。おわらに対する愛は深い。
おわら風の盆では、八尾町中心部にある西新町、東新町、諏訪町、上新町、鏡町、東町、西町、今町、下新町、天満町、福島の計11町民が町内を練りながら踊り、歌い明かす。おわらは旧踊りと新踊りがあり、種まきや稲刈りなどの農作業を表現している。町民は物心ついたころから踊り始め、就学時は夏休み中に毎晩、地域の公民館などで練習に励む。
新踊りには、黒い法被姿で舞うキレのいい「男踊り」と、浴衣姿の艶やかな「女踊り」がある。若いころは踊り手としておわらの音色に親しみ、齢を重ねて唄(うた)や、胡弓・三味線の演奏を学び、「地方(じかた)」と呼ばれる役割に転じていく。すべての町におわらの名手がおり、若者の指導にあたる。町民は風の盆のために1年間、研鑽を積むのである。
「明日香」の店主が、高橋さんとの逸話を披露してくれた。思い出の一つは、風の盆の期間中、上新町の沿道を彩る「ぼんぼり」に残されている。「おわら風の盆」と書かれた文字の横に小さく「治」とある。小説が一大ブームを巻き起こしたころの揮毫(きごう)らしい。今年は高橋さんを偲んで灯りをともすことになりそうだ。
「二十数万人の観光客を連れて来てくれたのは高橋さん。今でも小説を手にした観光客が訪れます」(明日香の店主)
八尾は坂の町である。土蔵造りの民家が残る町並みに、胡弓の調べが似合う。『風の盆恋歌』は大人の恋物語を描いている。学生時代、密かな恋心を抱いていた男女が約30年後に再会し、風の盆で逢瀬を重ねる。幻想的、哀愁と表現される踊りが作品全体を彩っている。