どうすれば小泉今日子のように、齢とともに魅力を増していけるのか―― その秘密を知ることは、現代を生きる私たちにとって大きな意味があるはず。
日本文学研究者である助川幸逸郎氏が、現代社会における“小泉今日子”の存在を分析し、今の時代を生きる我々がいかにして“小泉今日子”的に生きるべきかを考察する。
* * *
世紀末に、「女子」という言葉に新しい意味が生まれました。ゼロ年代に入ると、「女子」向けコンテンツがさかんに世に出されます。その一つである、宝島社の雑誌「InRed」で、小泉今日子はイメージシンボル的な役割を担いました。
しかし、初期の「InRed」のコンセプトと、30代の小泉今日子のありようがマッチしていたかは疑問です。そのころ小泉今日子は、「『女子』としての魅力」より、「プロの『女優』にしかない凄味」を感じさせる存在になっていました。
ゼロ年代の「InRed」に載せられた小泉今日子のポートレートは、かなりの完成度に達しています。海外ブランドのドレス、トラッドなマリンルック、和服……さまざまなコスチュームを身にまとい、小泉今日子は誌面を彩っています。着ている服やロケーション、季節、天候。撮影された状況にあわせ、彼女の表情や雰囲気は変幻自在です。それは、経験豊かな女優だからこそ可能な業(わざ)といえます。
プロとして仕事をしているとき、それが高度なものであればあるほど、その人の存在から「性別」は消えます。たとえば、被告人の弁護士が男性か女性かを、法廷にいる裁判官はほとんど意識しないはずです。「女優は女でない」と、演劇業界でしばしばいわれるのもこのためです。
性別に立脚した「女子の魅力」は、プロフェッショナルとして振る舞っているさなかには背後に隠れます(そもそも、「社会的評価につながらないかわいらしさ」にこだわるのが「女子」でした。「プロとしてふるまうこと」と「女子らしくあること」は、相容れなくて当然です)。「InRed」に載せられた小泉今日子のファッションフォトは、まさしくそのことを感じさせます。「女子」の雰囲気は、「女優」としての迫力に覆い隠されているのです。
同じ「InRed」のアイコンでも、Puffyのふたりは、どの服を着ても似たような表情を浮かべています。彼女たちは「歌のプロ」なので、モデルとしてはアマチュアに徹しているのでしょう。そのぶんかえって、Puffyのポートレートには、小泉今日子のそれより「女子」感が漂っています。
「InRed」に載った小泉今日子の写真でいうと、エッセイに付されたものの方にむしろ「女子」らしさを感じます。『小泉今日子の半径100m』には、彼女のプライベートフォトが載っています。『小泉今日子実行委員会』に添えられているのは、ヨガや農作業など「初めてやること」に挑戦する姿をとらえたものです。どちらにも、プロとして仕事しているときとは違う、アマチュアの顔をした小泉今日子が写っているのです。
「30代女子」にむけて「InRed」を刊行していた宝島社は、2010年に40代女性をターゲットにした雑誌を創刊します。「大人女子」を謳い文句にした「GLOW」です。初期の「InRed」に登場していた永作博美やYouは、そのころ40代に差しかかっていました。彼女たちは「InRed」を卒業し、「GLOW」のアイコンの役割を引きうけます。