どうすれば小泉今日子のように、齢とともに魅力を増していけるのか―― その秘密を知ることは、現代を生きる私たちにとって大きな意味があるはず。
日本文学研究者である助川幸逸郎氏が、現代社会における“小泉今日子”の存在を分析し、今の時代を生きる我々がいかにして“小泉今日子”的に生きるべきかを考察する。
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「女子力」「女子会」「◯◯女子」――近年では、「女性」とは別の独特のニュアンスが、「女子」という語に込められています。
もともと「女子」という言葉は、学校において「男子」と対比的にもちいられていました。運動競技の名称にも、「男性」と「女性」や「男流」と「女流」ではなく、「男子」と「女子」が使われます(「女子マラソン」「男子平泳ぎ決勝」など)。これは、スポーツが教育現場で発達してきた名残です。
今日のような意味を「女子」が帯び始めたのは、1990年代後半からだといわれます。漫画家の安野モヨ子が、イラスト入りエッセイ『美人画報』(「Voce」で1998年連載開始)で「女子力」について語りました。これが、「女子」という概念を更新する大きな引き金になったようです(注1)。
「女性会」と聞くと、「女の人の集まり」という以上のイメージは浮かばないという人の方が多いでしょう。ところが「女子会」となると、男女混合の催しでは見られない「女性ならではのパワフルさ」がみなぎっている感じを受けます。
新しい意味での「女子」を、一義的に説明するのは困難です。自分にそなわった「『女の子』に特有のかわいらしさ」を、「私らしい」という理由だけで愛でる存在――いちおう私は、こんな具合に「女子」を理解しています。
「私はモテにも社会的評価にもこだわらない。自分がかわいいと思うものと、それをかわいく感じる自分を肯定する」
これが「女子」の精神ではないでしょうか。
かつて、女性が自分に磨きをかける最大の動機は、男性を惹きつけることでした。この状況は、バブル経済崩壊後に一変します。多くの男性が、長びく不況のため、恋愛にお金を使う余力を失ったのです。一方、1985年に男女雇用機会均等法が施行された影響から、高収入の女性が増えはじめます。女性に贅沢を与えられる男性は減り、自力で贅沢のできる女性の層は広がる。異性を魅了することで女性が得られるメリットは激減しました。