その後、幾度かの改装を経て、「陸奥」は太平洋戦争に臨むこととなる。しかし、「陸奥」は温存され、前線に投入される機会が少なかった。

 だが、戦いの機会が与えられなかった「陸奥」に、突如、“最期”の時が訪れる。1943年6月8日、「陸奥」は広島湾沖にある柱島(山口県岩国市)付近に停泊していた。12時過ぎ、「陸奥」は大爆発を起こし、沈んでしまった。その犠牲者は1121人にも及ぶ。

 当初は、敵潜水艦による攻撃と思われたが、後に「三番砲塔火薬庫」の爆発によるものだと判明している。だが、なぜ爆発を起こしたのか、その原因は、今日に至るまでわかっていない。

 その後、柱島周辺の航行は禁止され、「陸奥」の爆沈は秘匿された。国民的戦艦の最期が、戦って沈んだのならまだしも、戦わずして沈没した事実は公表できなかったのだ。国民の多くがその事実を知るのは、終戦後だった。

 一方で、沈没した「陸奥」の調査は事故後すぐに行われた。外洋で沈んだ「大和」や「武蔵」と異なり、沈んだ地点が水深40メートルほどしかないため、調査は容易だった。船体を引き揚げて修理することも検討されたが、損傷激しくすぐに断念された。

 「陸奥」の引き揚げが本格化するのは、戦後の1970年になってのことだった。民間のサルベージ会社によって行われ、現在では、主砲を含めて船体の75%が引き揚げられ、同時に乗組員の遺骨や遺品も回収されている。

 これらの“遺品”は、陸奥記念館(山口県大島郡周防大島町)をはじめ、靖国神社遊就館や船の科学館など全国計10カ所以上で展示されている。主砲や錨をモニュメントとして展示しているところも少なくない。

 かつて国民に愛された「陸奥」は、今では最も“身近な”戦艦として生き続けているのだ。深海に沈んだ「大和」や「武蔵」、戦後にビキニ環礁で行われた原爆実験の犠牲となった「長門」と比べると、その命運は実に対照的だともいえる。

 戦後70年の節目、「武蔵」や「陸奥」の姿は我々に何を問いかけているのだろうか。幸いにして、国内に“遺品”が点在する「陸奥」であれば、その記憶を辿ることも難しくはない。そこにはきっと新しい発見があるに違いない。

(ライター・河嶌太郎)

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